国葬の、理由―するべき理由と、するべきではない理由(批判の理由)

 国葬に値するのだとされているのが、殺された安倍元首相だ。

 安倍晋三元首相は、どのような理由によって国葬されることになるのだろうか。その逆に、国葬への批判ができるとすると、どういった理由をあげられるだろうか。

 岸田文雄首相は、国葬をやるのに値する理由をあげていた。民主主義を守るためなのだとしている。政治家として、首相の地位に長くついていたことをあげている。いろいろな成果を、国の内や外であげたとしている。

 国葬をよしとするのとは反対の立ち場に立って、それを批判するとすると、こういった理由をあげられる。批判をするさいの目のつけどころとして、国葬されるのが、政治家であるのをとり上げてみたい。政治家は、表象(representation)であるのを見てみたい。

 政治家を国葬にすることになるけど、その政治家は、国民の表象だ。国民の代わりなのが政治家だから、国民そのもの(presentation)ではない。国民とのあいだにずれがあるのが政治家だ。

 表象なのが政治家だから、それを批判することがいる。政治家を批判するのとともに、政治家を国葬にするのであれば、その国葬を批判することもあってよいものだろう。

 国葬ではなくて、国民のお葬式の国民葬であれば、まだよいかもしれない。そのさい、すべての国民を平等にあつかうことがいることになる。差別のあつかいになってはならない。

 国民葬ではなくて、国葬になると、国民の表象とか、国民の象徴のお葬式を行なう。そうなってくると、より正確には、政治家葬だとか、天皇葬だとかと言ったほうがふさわしい。(国民の)代理人葬とか、象徴葬だ。

 天皇のことはひとまず置いておいて、政治家の政治家葬となると、国民のことをさしおいて、なんで政治家のお葬式を国があげるのか、となる。優先されるべきなのは、国民の代わりの政治家なのだとはいえそうにない。優先されるべきなのは、国民そのものだろう。

 安倍元首相の国葬には、警備をふくめて、一〇〇億円くらいかかるという。この費用は、代理人費用(agency cost)の一部だ。代理人費用は、代理人(政治家)への監視がなされていなかったり甘かったりすることで、代理人が悪さ(不正)をして、よけいな費用がかかることだ。

 あらためて見てみると、国葬は、その用語に多義性やあいまいさがある。国民のお葬式の国民葬だったらまだしも、国葬とはいってもその実態は政治家葬であり代理人葬だ。表象葬なのである。

 国は共同幻想であり想像の共同体だから、それが確かにあるとはいえそうにない。国どうしの関係の網の目(network)があり、その結節点として一つの国がある。関係が先だつ。関係の第一次性だ。関係主義からすればそうできる。

 政治家よりも、国民を優先させるべきだし、国よりも、国民を優先させるべきだ。優先されるべきものである国民は、国と同じように多義性やあいまいさがある。国とは何かや国民とは何かがわからなくなっている。自明ではなくなっている。国や国民には、人為や人工の構築性があるのはいなめない。

 安倍元首相を国葬にすると、優先の順位(priority)がおかしくなってしまう。ほかのもの(人)をさしおいて、なぜ安倍元首相が国葬にされるのかが、あらためて見るとよくわからない。

 政治家としてであれば、それは表象なのだから、まつり上げるよりも、むしろ批判をするべきである。政治家としての業績(功績)ではなくて、政治家であることの形式のところに目を向ければ、それは国民の代わりなのだから、国民をさしおくことはおかしい。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『構築主義とは何か』上野千鶴子