国葬と、その許容―許容できるかできないかと、枠組み(framework)の相対性や複数性

 どうして、安倍元首相が国葬にふさわしくないのか。国葬に値しないのか。だれか、それを教えてほしい。どうか教えてほしい。新聞の記事ではそう言われていた。

 自分が当たり前だと見なしていることは、自分でそれをあえて疑うことはあまりない。自明性の厚い殻(から)におおわれていることがらだ。

 自明性の厚い殻におおわれているのが国葬だとすると、その殻にひびを入れてみたら、どういうふうに見なせることになるのだろうか。殻にひびを入れてみて、雑音(noise)を引きおこしてみたらどうなるだろうか。

 国葬をよしとするのが、同化だとすると、それを良しとしないで反対するのは異化に当たる。異化して見るようにすると、当たり前だとしていることが、ちがったように見えてくることがある。

 犯人に殺されたのが安倍晋三元首相だが、その国葬をやるのを、許容できるかどうかがある。許容の範囲の内にあるかそれとも外にあるかだ。

 許容の範囲の内にあるとするのは、それをやる必要性があるとすることだ。

 許容することができないのは、許容の範囲の外にあることだ。国葬を良しとせずに反対するのは、国葬が(その人の)許容の範囲の内にはないことを示す。

 ことわざでは、十人十色(Several men,several minds.)と言われる。人の好みは説明できない(There is no accounting for tastes.)とも言われる。たで食う虫も好き好きだ。食べものでいえば、セロリが好きな人もいればきらいな人もいる。にんじんが好きな人もいればきらいな人もいる。

 国葬を、食べもののセロリやにんじんに置き換えられるとすると、セロリやにんじんが好きな人にとっては、それがきらいな人の気持ちがわからない。それらがきらいな人にとっては、それが好きな人の気持ちがわからない。

 セロリやにんじんが好きな人にとっては、それは必要なものだ。それらがきらいな人にとっては、それらは不要なものだ。

 どうして、許容の範囲にちがいがおきて、人によって許容したりしなかったりすることがおきるのかといえば、枠組み(framework)がちがうからだろう。枠組みがどうかによって、許容できたりできなかったりする。ちがいがおきてくる。

 客観として、国葬が必要なのかといえば、そうとは言い切れそうにない。必要性がねつ造されている疑いが小さくない。

 枠組みの持ち替えのようなことをやってみると、ちがう枠組みからすれば、国葬を許容することができない。または、許容することができる。枠組みによって、許容できるかできないかが左右されることになる。

 そのことを許容できるのや、許容できないのは、そのことを説明できるとも言えるし、できないとも言える。説明しようと思えばできるけど、好みによるところもある。食べものでいえば、セロリやにんじんが好きな人は、なぜそれが好きなのかは、うまく説明できないところをかかえ持つ。よくわからないけど好きなのだといったところがある。

 国葬にかぎらず、あることについて、それを許容できる人もいれば、できない人もいる。それが必要な人もいれば、不要な人もいる。許容できる人からすれば、それが当たり前であり自明なことだけど、それはその人がもつ枠組みによってみちびかれる見なし方だ。ちがう枠組みからは、ちがう見なし方がみちびかれる。どの枠組みであっても、それが絶対に正しいとは言い切れない。その枠組みからみちびかれる見なし方が、完ぺきに正しいとは言えそうにない。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『現実はいつも対話から生まれる 社会構成主義入門』ケネス・J・ガーゲン メアリー・ガーゲン 伊藤守監訳、二宮美樹翻訳統括