沖縄県や、そこでの座りこみの活動にたいする表象のあり方―表象や構築の政治性(立ち場性)

 座りこみをやっている沖縄県の人たちに、文句が言われている。二十四時間やるのでないと、座りこみ(をつづけている)とはいえないのだという。辞書にもちゃんとそう記してあるのだという。

 文法としてしばしば正しく話すことができないのが、沖縄県の人たちだと言われているのもあった。きれいな日本語ではないのだという。

 まちがった座りこみのやり方をしていたり、文法としてしばしば正しく話せないことがあるのが、沖縄県の人たちなのだろうか。そうした見なし方は正しいものなのだろうか。

 座りこみでは、その定義づけがある。どういう質(内包)であるのかだ。質では、二十四時間において座りこみをしないといけないのだと、二十三時間五十九分五十九秒やったさいにはどうなのかがある。ちょうどきっかり二十四時間やらないとならないのだとするのは、厳格すぎるものであり、ふさわしい質の決め方だとはいえそうにない。厳格主義(rigorism)によるのではなくて、もっとゆるくてもよいものだろう。

 一人だけで座りこみをやるさいには、いろいろな生理の現象(食事や排泄や睡眠など)を避けられないから、とちゅうで休みをはさむことがいるものだろう。完ぺきに連続して座りこみをやるのは難しいから、断続のものになるものだろう。

 言葉では、規則として文法があるのはたしかだけど、文法は後づけで体系づけられたものだろう。文法がまずあって、それにのっとって日本語を使っているのであるよりも、使われている日本語から後づけの形で文法が作られるのである。

 しばりとしてはたらくのが文法だけど、それだけではなくて、自由にそれぞれの人が好きなように文法を作るのであってもよい。それぞれの人が使いやすいような文法を好きなように作るのであってもかまわないものだろう。こういうふうに文法を作らないとならないといった絶対の決まりはない。文法があって日本語があるのであるよりも、日本語があってそのごに(それを分析したものとして)文法がある。

 日本の本土を中心化するのだと、辺境や周縁にあるものを下に置くことになってしまう。中心とはちがっているのが辺境にはあるのだとして、中心を上にして辺境を下に置いてしまう。

 日本の悪さとしては、中心を優の階層(class)にして辺境を劣の階層にするのがある。上と下のあいだがらにして、上から下を見下す。

 中心を正しいものだとするのがあって、そのあり方を辺境に押しつける。画一化のあり方だ。同質化の圧力(peer pressure)を強くはたらかせる。

 縦並びと横並びの二つがあって、沖縄県にたいして、その二つをとっているのがある。縦並びでは、日本の中心を優にして、辺境である沖縄県を劣に置く。横並びでは、中心のあり方を標準のものとして、それと少しでもずれているものをだめなものとか悪いものだと見なす。みんなそろっていて横並びでないとならないのだとするものだ。

 沖縄県に、縦並びと横並びの二つを押しつけているのあるけど、そのほかにもその二つを押しつけているのがいろいろにある。在日の朝鮮の人たちや、性では女性などがそれに当たる。日本にはその悪さがあるから、それを改めて行かないとならない。

 言葉でいえば、標準の日本語が絶対のものかといえば、そうとは言い切れないところがあり、たとえばテレビの世界なんかでは関西弁が力を強く持っている。関西弁には大きな長所があるからだろう。

 どういうふうに沖縄県を見なすかの、表象(representation)のしかたでは、下に見下すのがおきがちなのが、日本の中心のあり方だ。日本の中心の枠組み(framework)だと、中心化が強くとられることになり、辺境を劣ったものだとすることになる。

 辺境を劣ったものだとするのは、よくない表象のしかただから、その構築のあり方を脱構築(deconstruction)するようにしたい。日本の中心をすぐれたものとするのではなくて、それを脱中心化するようにして、きつい上と下の縦並びや、きつい同質化の横並びのあり方を改めて行く。

 辺境の劣っているとされているものがなければ、中心の優れたものだとされるものはなりたたないのだから、劣っているもののほうがすぐれているのがある。劣っているのはすぐれていて、すぐれているのは劣っている。脱構築してみればそう見なすことがなりたつ。

 日本の中心の枠組みからすれば、中心が標準ですぐれていることになるけど、その枠組みは改められないとならない。その枠組みによるのだと、差別がおきることになってしまい、辺境を排除することになってしまう。

 辺境である、沖縄県によくないところがあるのではなくて、その外である日本の本土に悪さがある。そう見なしてみたい。沖縄県に、よくないことの原因の帰属(特定)を当てはめられるのではなくて、その外である日本の中心に原因の帰属を当てはめられる。辺境である沖縄県の内にではなくて、その外である日本の中心に原因を帰属させるのがふさわしい。

 原因の帰属のさせ方では、内に当てはめるのと外に当てはめるのがあるけど、辺境の内にではなくて、その外に原因を当てはめるのが適している。中心が、辺境を劣ったものだと見なしているのがあるし、中心が辺境にたいして同質化の横並びのあり方を強いている。

 縦並びでは下に置かれてしまい、横並びではちがいを許されない。差異を許されない。辺境にそうなることのもとがあるのではなくて、その外である日本の中心にもとがある。悪い構築のしかたをしてしまうのが日本の中心の枠組みにはあるから、それを改めることがいる。縦並びや横並びによりすぎるのを変えるようにして、上と下や優と劣を転じたり、ちがいや差異を許すようにして行きたい。

 参照文献 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『クリティカル進化(シンカー)論 「OL 進化論」で学ぶ思考の技法』道田泰司 宮元博章 『縦並び社会 貧富はこうして作られる』毎日新聞社会部 『差別原論 〈わたし〉のなかの権力とつきあう』好井裕明(よしいひろあき) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『異質との共存 戦後日本の教育・思想・民族論』尹健次(ゆんこぉんちゃ)