新宗教や親と、子どもとの対立―三者(三人の主体)のそれぞれの言いぶん(正義、真理)がある

 新宗教の信者の家族によって、子どもが害を受ける。子どもが親から害を受けたのを、記者会見をひらいてうったえていた。

 韓国の新宗教(旧統一教会)は、子どもが記者会見で言っていることはうのみにしてはならないのだとしていた。精神に障害があるから、うそを言っているおそれが高いのが子どもだという。

 記者会見をひらいてまでうったえていることであっても、うそによることだから、それをうのみにしないほうがよいのだろうか。何をうのみにしないようにして、何をうたがうようにするべきなのだろうか。

 うまくいっている家族であればよいけど、そうではない機能が不全の家族だと、そうとうな苦しみがおきるものだろう。機能が不全の家族の中で、子どもが親から害を受けたとすると、そうとうに大きな害である見こみがある。

 どういう統治(governance)のあり方がふさわしいのかでは、子どもにできるだけやさしい家族であることがいる。家族の中で弱者に当たる子どもなどをどれくらいやさしくあつかえているかで、統治がうまくできているかどうかをおしはかれる。子どもなどに冷たい家族は、まっとうな統治ができていないことになる。

 親が正しくて子どもがまちがっているのだとするのだと、子どもが言っていることを否認してしまう。新宗教に置きかえてみると、新宗教が正しくて、それに歯むかう信者や外部の者はまちがっているとすることになる。歯むかう信者や外部のものが正しいことを言っている見こみは少なくない。

 親や新宗教の教祖が、権威化されるのだとまずい。まだ小さい子どもであればともかく、あるていど子どもが育ったら、できるだけ子どもを尊重するようにして、子どもの自己の統治(autogovernment)と自己の実現がなせるようにするほうがのぞましい。

 親や新宗教が権威化されてしまっていると、それらが超越の他者(hetero)になってしまう。超越の他者によって動かされるのだと、他律(heteronomy)のあり方になる。子どもにとってのぞましくないあり方だ。あるていど以上に育った子どもにとってのぞましいのは、自己の統治や自己の実現がなせることであり、自律(autonomy)のあり方だ。

 子どもの自己の統治や自己の実現をさまたげてしまっていて、それらをなすのをはばんでしまっているのが韓国の新宗教だろう。親や新宗教を権威化してしまっていて、子どもを押さえつけるようにはたらく。

 どういうあり方が子どもにやさしいのかといえば、あるていど以上に育ったら、愛と尊敬をもってあつかう。愛は距離を近づけることになり、尊敬は距離を遠ざけることになる。適した距離をとれるのがのぞましい。

 頭から、記者会見で子どもがうそを言っているのだとは決めつけないようにして、実用主義(pragmatism)でとらえるようにしたい。

 実用主義では、好意の原理(principle of charity)があり、明らかにうそを言っているのだと言えるような確かな証拠(evidence)となる事実がないかぎりは、その人が本当のことを言っているのだと見なす。

 好意の原理によってみると、子どもが記者会見で言っていたことは、うそだと言える確かな証拠となる事実がないかぎりは、本当のことを言っているのだと見なすのがふさわしい。

 だれであったとしても、どの立ち場(親、子ども、新宗教など)であったとしても、うそが言えるし、本当のことも言える。その立ち場(たとえば、子どもの立ち場)にかりに立ってみたら、その立ち場であるからうそを言っているのにちがいないと決めつけられたら不ゆかいだし、受け入れがたい。立ち場を反転させてみるとそう言える。

 うそを言っているのにちがいないのだと決めつけて、子どもを否認するのではなくて、承認するようにする。承認しないで否認するのだと、子どもを敵だと見なすことになって、敵を排除することになってしまう。対立がおきているさいに、敵を排除してしまわずに、客むかえ(hospitality)をして行く。新宗教がやるべきことは敵(対立者)の客むかえであり、敵によき歓待をするべきだろう。

 参照文献 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『家族はなぜうまくいかないのか 論理的思考で考える』中島隆信 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『ぼくたちの倫理学教室』E・トゥーゲンハット A・M・ビクーニャ C・ロペス 鈴木崇夫(たかお)訳 『倫理学を学ぶ人のために』宇都宮芳明(よしあき)、熊野純彦(くまのすみひこ)編 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香 『まっとう勝負!』橋下徹