うたがうべきものとしての、政治と宗教(カルト宗教)―うたがうことと、信じること

 政治と報道がゆ着し合う。政治と宗教がゆ着し合う。

 政と報や、政と宗がつながり合うと、どういったまずさがおきるだろうか。

 政治で、うそをつくのがかんたんに許されてしまう。報道がきちんとしていないとそうなりやすい。

 政治家は、国民そのものではなくて、国民の代理だ。政治家は表象(representation)にすぎないから、うそをつきやすい。

 うそをつきやすいのが政治家である。うそにきびしくするためには、報道がしっかりと権力を監視していないとならない。

 日本では、政と報や、政と宗がゆ着しているから、報道が甘くなっている。報道が甘いから、政治家がうそをついても平気で許されてしまう。

 政治家は表象であることから、うそをつきやすいのがあるけど、そこが日本の報道ではおろそかにされている。政治家のうそに甘くなっていて、うそを許してしまっている。政治家のことを信用してしまっているのである。

 政治家をかんたんに信用してしまう。そこから、政治とゆ着している新宗教のことも、かんたんに信用してしまう。政治家を信用し、その政治家とつながっている新宗教のことも信用する、といった構造がおきる。

 表象にすぎないのが政治家なのだから、政治家を信用するのではなくて、うたがうべきだ。政治家とゆ着している新宗教(新興宗教)のことも、たやすく信用するのではなくて、うたがうべきだ。政治家をうたがうべきなのと同じように、新宗教もまたうたがうくらいでちょうどよい。そうでないと、その新宗教のカモになってしまう。

 かんたんに、韓国の新宗教のことを信用するのであれば、それのカモになってしまう。入信させられてしまう。政治においては、政治家のことをかんたんに信用するのだと、政治家のカモになってしまう。

 日本の報道機関は、政治家や、新宗教にとっての、かっこうのカモだろう。かんたんにだまされてくれる。かんたんに信用してくれる。日本の報道機関の、とくにテレビ局は、自分たちの意見(持論)を持っていないから、政治家や新宗教の言っていることを頭からうのみにして、それらに流されやすい。

 政治家を信用する枠組み(framework)が、日本ではとられている。政治家をうたがわない。そこから、政治家とゆ着している韓国の新宗教のことも、信用してしまっている。新宗教のことを、カルト(cult)なのではないかといったようには、うたがわないのである。

 うたがうのではなくて、政治家を信用する枠組みがとられていることから、日本では、悪循環がおきている。ほんとうであれば、表象にすぎない政治家のことをうたがい、韓国の新宗教のこともうたがうのであればよかった。その逆をやってしまうことが日本ではおきている。

 悪循環がおきていて、これまでの枠組みがわざわいしている。これまでの枠組みでは、政治家を信用して、うたがわない。だから日本の政治がどんどんだめになって行く。信用するから、ますますだめになって行く。政治家を信用してだめになり、韓国の新宗教を信用してだめになる。

 うたがうことが欠けているのがわざわいしている。表象にすぎない政治家を、うたがう枠組みに転じることがいる。政治家は表象だから、うそをつきまくるのがあり、うたがってかかるくらいでちょうどよい。

 報道機関は、政治家が表象であることをしっかりとくみ入れて、政治家をうたがわないとならない。それとは反対に、信用してしまっているから、(政治家や新宗教を)信用する枠組みから、うたがう枠組みに転じないとならない。枠組みを転じないと、どんどん日本がおかしくなることに歯止めがかかりづらい。

 参照文献 『政治家を疑え』高瀬淳一 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『共謀者たち 政治家と新聞記者を繋(つな)ぐ暗黒回廊(かいろう)』河野太郎 牧野洋(よう) 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香