家族がうまく行っていれば、事件はおきなかったのか―安倍元首相は殺されなかったのか

 家族さえしっかりしていれば、犯人はちゃんとしていただろう。事件はおきなかっただろう。安倍元首相が殺された事件では、犯人の家族が壊れていたことが、事件のもとになったという。

 犯人の家族が壊れていなくて、しっかりとしていれば、安倍晋三元首相が殺されることはなかったのだろうか。事件はおきずにすんだのだろうか。

 犯人の家族がどうだったのかでは、家族だけを単一でとり上げるのと、ほかのものとの複合として見るのがある。

 集団の大きさでは、家族よりも大きい集団である社会や国をとり上げることができる。

 家族だけをとり上げるようにしてみると、個別として、犯人の家族が壊れていたことがわざわいしたのだとばかりは言えそうにない。個別ではなくて、一般として、家族がどうなのかを見てみたい。

 うまく機能していない家族は、機能が不全の家族であり、そういった家族には危険性がある。危険な場所なのが家族の中だ。さつばつとしていたりぎすぎすとしていたりする。

 犯人の家族だけにかぎらず、家族の一般において、家族を統治(governance)して行くことはとてもむずかしい。統治がうまくできていなくて失敗している家族のほうが多いだろう。他人どうしであるのが家族だから、統治がうまく行かなくて失敗しても当然である。

 男性を優にして女性を劣にするのが、日本の家族の標準の型になっている。その型がいまでは壊れている。戦後のしばらくのあいだまでは、型が通用していたけど、それが通じなくなっているのがいまだろう。

 家族だけではなくて、複合によって見てみると、政治や教育や労働をあげられる。家族がうまく行かなくなっているのであるだけではなくて、政治や教育や労働もまたうまく行かなくなっている。

 犯人は、家族が壊れていただけではなくて、政治のだめさや、教育のだめさや、労働のだめさもまたわざわいした。一重(いちじゅう)ではなくて、多重に、何重にもだめなものがあって、複合に、犯人は悪い影響を受けざるをえなかった。

 家族がだめになっているのであれば、それよりもより大きな集団である、社会や国がそれを補うのでないとならない。社会や国が埋め合わせをするのでないとならない。

 社会や国が、個人を救わない。日本のあり方はそうなっているのがあり、家族にいろいろなものを押しつけている。社会や国が、個人に冷たいところがあり、個人を包摂するのではなくて、排除してしまっているところがある。

 個人ではなくて、世帯を主としているのが日本のあり方であり、それによって個人が排除されやすい。家族がだめになっているのを何とかする(補う、埋め合わせる)ためには、社会や国のあり方を変えることがいる。社会の価値観を変えて行き、個人がより生きて行きやすい価値観に変えて行く。個人が生活で困らないようにするためには、社会や国のあり方を見直すことがいり、個人が見捨てられてしまい、排除されてしまうのではないようになることがのぞましい。

 参照文献 『家族はなぜうまくいかないのか 論理的思考で考える』中島隆信 『社会を結びなおす 教育・仕事・家族の連携へ(岩波ブックレット)』本田由紀 『事例でみる 生活困窮者』一般社団法人社会的包摂サポートセンター編 『家族依存のパラドクス オープン・カウンセリングの現場から』斎藤学(さとる) 『社会的排除 参加の欠如・不確かな帰属』岩田正美 『反貧困 「すべり台社会」からの脱出』湯浅誠 『個人を幸福にしない日本の組織』太田肇(はじめ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫