ロシアとウクライナの戦争と、宗教性―ゆいいつ正しい一つの視点と、テクストによるあり方

 ロシアがおこした戦争を、宗教の点から見てみたい。

 宗教の点から見てみられるとすると、ロシアにおいては、排他のあり方になっているのがある。

 排他のあり方は、たった一つの視点だけによる。たった一つの視点しかよしとされない。一つの視点が特権化されている。

 一つの視点だけによるのだと、宗教においては、教義(dogma、assumption)や教条が絶対化される。教義をうたがったり否定したりしてはならない。疑われてはならないものなのが教義だとされることになる。

 ロシアがウクライナにしかけた戦争は、正しいものだった。ロシアの中ではそうした教義がとられている。たった一つだけの視点による排他のあり方だ。

 戦争をしかけたのは正しいことだとしているのがロシアの教義だけど、それによるのではなくて、戦争をテクストとして見てみたい。

 テクストとして戦争を見てみられるとすると、いろいろな視点がなりたつ。ロシアは正しいとする視点だけではなくて、ロシアはまちがっているとする視点がなりたつ。

 排他のあり方とはちがうのがテクストとして戦争を見るものだ。テクストとして戦争を見てみれば、排他ではなくて、包摂や多元性によることができる。包摂はいろいろな視点を含みもつものだ。多元性はいろいろな視点によることで、よりよいあり方につなげて行くものだ。

 悪い宗教のあり方になっているのがロシアの国だろう。排他のあり方になっていて、教条主義になっている。たった一つの視点だけによっていて、それが国の中で一方的に押しつけられている。

 宗教の点からすると、のぞましいのは、包摂や多元性によるあり方だから、ロシアの国はそれらのあり方に改めることがいる。包摂や多元性によるようにすることがいるのがロシアだ。

 悪い宗教のあり方におちいっているのがロシアであり、悪さを改めて行くには、テクストとして戦争を見ることがよしとされないとならない。テクストとして戦争を見てみれば、ロシアは正しいとする視点を特権化することはできなくなる。

 いろいろに自由な視点をとることができて、受けとる人によってさまざまなとらえ方ができるのが、テクストによるあり方だ。そのテクストのあり方を上から否定しているのがロシアの国だ。テクストのあり方をロシアの国民がとると、ロシアの国の教義がまちがったものであることがばれてしまう。教義を信じこませることができなくなる。

 開かれているか閉じているかでは、ロシアは正しいとするのは閉じたあり方だ。ロシアとウクライナの戦争を見るさいには、閉じたあり方で見ることができるけど、開かれたあり方で見ることもなりたつ。

 開かれたあり方であれば、はじめからこうだとは定まっていないので、どういうものなのかを受けとる人が自由に決められる。受けとる人にゆだねられている。閉じたあり方ではなくて、開かれたあり方であるのが、ロシアとウクライナの戦争であると言うこともできるかもしれない。

 閉じているのだったら、ロシアは正しいとか、ロシアは悪いとかとあらかじめなっているから、受けとる人が自分で判断しなくてすむ。閉じているのはある点で言えば楽だ。閉じているのだったら、自分が判断しないですむから楽なことがあるけど、開かれているものは、受けとる人が自分で決めないとならないから、たいへんなことがある。

 参照文献 『宗教多元主義を学ぶ人のために』間瀬啓允(ひろまさ)編 『超入門!現代文学理論講座』亀井秀雄 蓼沼(たでぬま)正美 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『原理主義と民主主義』根岸毅(たけし) 『難解な本を読む技術』高田明典(あきのり)