ロシアとウクライナの戦争と、視点の数の多い少ない―視点の数と、こうはとなんぱ

 ロシアとウクライナのあいだで戦争がおきている。

 戦争を固いものであるといえるとすると、それを和らげるにはどうすることがいるのだろうか。

 視点の数でいえば、視点が一つだけだと固いこうは(硬派)になりやすい。視点の数がいくつもあれば柔らかいなんぱ(軟派)になりやすい。

 いま戦争をやっているロシアを見てみると、視点が一つだけになっていて、固いこうはになっている。ロシアのウラジーミル・プーチン大統領は、こうはなあり方になっている。

 たった一つだけではなくて、いくつもの視点を持つようにすることがいるのがロシアであり、ロシアのプーチン大統領だろう。いくつもの視点によるようにしていれば、ロシアが戦争をやることは避けられたはずだ。

 国民は、どこかの一つの国だけに帰属させられるのがあるから、それがしばりとしてはたらく。一つの国に帰属することで、自己同一性(identity)が形づくられる。このあり方は、視点が一つだけのあり方だ。

 自己同一性は、国に帰属することから来るものだ。国に帰属しないようにすれば、自己同一性が崩れることになり、個性や人格(personality)をもてるようになる。

 国を先に立たせるような本質主義によるのだと、自己同一性が重んじられることになる。個性や人格は軽んじられる。国のあり方としてのぞましいのは、国を先に立たせる本質主義によって、自己同一性を重んじて行くのではないほうがよい。できるだけ個性や人格を重んじて行く。

 自己同一性を重んじてしまうと、国に帰属することに重みがおきてしまい、しばりがきつくなる。個性や人格を認めないようになってしまう。個性や人格が認められないと、いざとなったさいに個人が自由にいろいろに動いて行けない。国に動かされてしまう。

 一つしか視点を持てないのが、自己同一性を重んじることだ。自己同一性を重んじるのをやめて、個性や人格を重んじて行けば、いくつもの視点をもてる。こうはなあり方によらないようにすることができて、なんぱなあり方になれる。なんぱなあり方のほうが、戦争にはなりづらい。

 はたや象徴でいえば、ロシアならロシアの国の一つだけしかとられない。自己同一性を重んじるのだと、ロシアならロシアのはたや象徴だけが使われる。それだと視点が一つだけしかないから、視点の数が足りない。

 視点の数が足りないのを増やすには、ロシアならロシアだけではなくて、ロシアとウクライナの二つが含まれているはたや象徴を使う。半分はロシアで、半分はウクライナがあらわされているはたや象徴を使う。二つの国が示されているはたや象徴を使えば、視点の数が増える。はたや象徴を、国どうしで半分ずつに分け合い、分かち合う。

 ロシアであれば、ロシアだけなのだと、視点が一つしかなくて、自己同一性を重んじることになる。自己同一性を重んじるのは、ロシアであればロシアだけではなりたたない。国は共同幻想や想像の共同体でしかないから、実体としては無いものだ。ロシアだけではロシアを説明できず、成立させられず、(それはそうだからそうなのだといったような)自己循環論法になる。視点を一つだけしか持たないあり方は幻想によるものである。

 幻想によるものなのが国だから、視点が一つだけしかないと、幻想にはまりこんでしまう。幻想から脱するためには、できるだけ視点の数を増やして行く。自己同一性を重んじないようにして、国に帰属することからくるしばりをゆるめる。個性や人格を重んじて行く。個性や人格を否定しないようにして行く。

 ことわざで言われる、十人十色(It takes all sorts to make a world.)をよしとして行く。人それぞれで色々な遠近法(perspective)をもつから、それぞれの人にはそれぞれの考え方があること(Several men,several minds.)をよしとして行きたい。個性や人格を認めるようにして行き、視点の数を増やすようにすれば、戦争がおきるのを避けるのに少しは役に立つだろう。幻想である国から、少しは距離をとりやすくなる。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『ユーモア革命』阿刀田高(あとうだたかし) 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや) 『アイデンティティ(identity) / 他者性(otherness) 思考のフロンティア』細見和之(ほそみかずゆき) 『半日の客 一夜の友』丸谷才一 山崎正和 『楽々政治学のススメ 小難しいばかりが政治学じゃない!』西川伸一 『資本主義から市民主義へ』岩井克人(かつひと) 聞き手 三浦雅士