野党の共闘で、共産党といっしょにやるのはありえないことなのか―三者の関係性で見てみる

 立憲民主党が、日本共産党と組むのはありえないことだ。労働組合の会長はそう言っていた。野党どうしの共闘で、共産党といっしょになってやって行くのはよくないことなのだろうか。それについてを三者の関係性によって見てみたい。

 政治とは関わりがないことではあるが、恋愛においては、二人が結びつくさいに、三者の関係になっているとより燃え上がりやすい。恋愛の三者の関係では不倫などがおきる。三者のうちの一人は排除されることになる。

 二者ではなくて三者として見たさいに、三者のうちの一人が排除されて、そのことによって残りの二者がまとまる。残りの二者の結びつきが強まる。一人を排除して、残りの二者が強く結びつくことがおきやすい。

 政治において、野党の中では、共産党は魔女のようなところがある。魔女は、日常のケにおいては辺境や周縁のところに置かれて、中心からは排除される。非日常のハレのときに、魔女は中心におどり出ることになり、大きく活躍する。

 野党の共闘をやるさいに、共産党を排除してしまうと、共闘が虚偽意識と化す。現実から離れた虚偽意識になってしまう。共産党は政党(political party)の一つであり、日本の国の中の民意の一部(part)を代表していることはたしかであり、その民意の一部をとり落とすことになってしまう。

 日本の国の中の民意の一部を共産党が代表していることは、軽んじることができないものだと言える。軽んじることができないのは、日本の政党の中でゆいいつといってよいほどに中身がわりにしっかりとしているのが共産党だと言えるからだ。量や数であるよりも、質がそれなりに高い。量や数だけが多くて質が低いのではない。

 共産党とはいっしょにやらず、それ以外の野党どうしで共闘をやるのだと、共産党が排除されることになり、共産党が貨幣になる。貨幣になるとは、それが排除されることによって秩序が形づくられることになるものだ。

 そもそもの話としては、共産党が排除されて、それが貨幣になっていることこそが、まずいことだと言える。日本のこれまでの秩序が固定化されてしまう。秩序が虚偽意識になってしまっているのがあるから、そこを改めることがいる。日本のこれまでの秩序のあり方にはまずさがあり、そのことが問われなければならない。全体の秩序のあり方のまずさを問うようにして、それをとり上げて行くためには、共産党を入れた形で野党が共闘することが必要になる。

 参照文献 『寺山修司の世界』風馬の会編 『貨幣とは何だろうか』今村仁司 『つながり、変える 私たちの立憲政治』中野晃一 聞き手 田中章