国葬と、正義―国葬には、正義がもうひとつ欠けている(正義がとぼしい)

 民主主義のために、国葬をやることがいる。岸田首相は、安倍元首相の国葬をやることについて、説明をしていた。

 国葬をやるのは、民主主義のためなのだろうか。

 何かをやるさいに、それが正当化や合理化されることになる。人間は、自分がやることを正当化や合理化する動物だ。

 いろいろなことをやるさいに、そこに関わってくるのが正義だ。それが正義であることから、それをやる。そのようにされることになる。

 国葬について、そこに正義があることが言われる。岸田文雄首相は、民主主義のためだとして、そこに正義があるかのようにしている。

 正義の点から見てみると、国葬に、それがどれくらいあるのかがある。とんでもなく正義があるのか、それともそこそこなのか、もしくはあまりないのか。ていどのちがいを見てみると、国葬には、正義がそこまでない。

 すごい正義があるのであれば、それが人々に受け入れられやすい。あんまり正義がないのであれば、あまり人々には受け入れられづらいだろう。

 何かをやるさいに、それをやることを、人々に受け入れさせて行く。人々を服従させて行く。いかに自発の服従を、人々から調達できるのかがある。正統性(legitimacy)がすごくあれば、自発の服従をたくさん調達しやすい。

 国民の五割くらいは、犯人に殺された安倍晋三元首相の国葬をやることに反対している。五割くらいの反対の声があることからすると、国葬をやることに、正統性があまりない。人々から、自発の服従を調達することに、あまり成功していない。

 どれくらい正義があるのかを、しっかりと示す。しっかりと説明して行く。すごい正義があることが、人々にわかるように示されていれば、支持されやすい。

 通用性と安定性の点から見てみると、国葬をやることは、絶対にいることなのだとすると、通用性に欠ける。国葬をやることが、絶対にいるのだと断言してしまうと、安定はするけど、通用しづらくなる。やることがいるかもしれない(やることがいらないかもしれない)として、安定性があまりない形にしないと、広く通用する形にならない。

 岸田首相は、国葬をやることについて、通用性が高くて、安定性も高くしようとしている。そこにむりがある。通用性も高く、安定性も高いようにするには、そうとうにたしかな正義がないとならないけど、国葬にはそんなに正義がないのだ。

 そんなに正義がないのが国葬なのだから、通用性をとるか、それとも安定性をとるのかの、どちらかをとれるのにとどまる。どちらかをとり、どちらかを捨てる。二つを共に取ろうとしているのが岸田首相であり、ことわざでいうあぶはち取らずになっているところがある。

 やろうとしている、あらゆることについて、そこに正義があると言うことはできるけど、それは人間が(自分のやることを)正当化や合理化する動物だからであるのにすぎない。

 悪い例では、自国が戦争をやることに、正義があるかのように言うことができる。ロシアなんかは、ウクライナに対してそういったことをやっているけど、だからといって、ロシアがやっていることに正義があると言うことはできない。ほんとうに正義があるのかどうかは、別の問題なのである。

 参照文献 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『日本の難点』宮台真司(みやだいしんじ) 『法哲学入門』長尾龍一 『なぜ「話」は通じないのか コミュニケーションの不自由論』仲正昌樹(なかまさまさき) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『政治家を疑え』高瀬淳一