信者などが、宗教へ(に対して)お金を払うことのよし悪し―お金の交通(移動)

 信者は、好きで教団にお金を払う。好きでお金を払っているのだから、よいではないか。テレビ番組では出演者がそう言っていた。

 神社で、おさいせんを払う。お寺に、おふせをする。それらと、新宗教の信者が教団にお金を払うのとは、どこがちがうことなのか。同じことではないか。テレビ番組ではそうも言われていた。

 自分で好きで、信者が教団にお金を払っているのであれば、そこには何もまずいことはないのだろうか。信者はそれで満足できるのだろうか。信者が教団にだまされてお金を払わされていることは、ないのだろうか。お金をまき上げられたり、だまし取られたりしていることは、いっさいないのだろうか。

 どこに目をつけるべきなのかといえば、信者に目を向けるのとはちがうようにできる。お金を払うのが信者であり、そこに目を向けるのではなくて、お金を払われる教団に目を向けられる。

 目のつけどころとしては、お金を払う信者にではなくて、お金を得ることになる教団に目を向けてみたい。

 一般論としてみると、お金を払うよりも、お金をもらうほうが、得をする。商売だったら、お客さんがお金を払う。お店はお金をもらう。お店は経済の利益をあげられる。お店の取り分を得られるのだ。

 お金を払うほう(信者)ではなくて、お金をもらうほう(教団)が得をする。そこがみそだろう。信者は、お金を払うほうであり、もらうほうではないから、お金の点では得をしない。損をしている。

 お金の点だけでいえば、払うほうは損をして、もらうほうは得をするから、ゼロ和(zero-sum)だ。だれかが損をする一方で、だれかが得をしているのだ。そうではなくて、どちらともが得をするのなら、非ゼロ和だ。

 お金をもらうほうが得をするから、どうやってお金を払わせるのかに知恵をしぼる。悪知恵だ。お金を払う人(信者)が、お金を払うことに、動機づけや誘因(incentive)をもつようにし向けて行く。

 信者がお金を払ったのであれば、そこにお金を払う動機づけや誘因がはたらいたことを示す。その動機づけや誘因が、働いてはいけなかったのにもかかわらず、働いてしまった。そう見なすこともなりたつ。ほんとうは、動機づけや誘因が働かないほうが、信者にとってはよかったのである。教団にとってはそれではまずいことになる。教団がお金を得られないからだ。

 その人が好きでお金を払ったのだから、よいではないか、と言われるのがあるけど、逆にいえば、だからこそやっかいだとも見られる。そういうふうな形(その人が好きでやったことだといった形)にすることができるからこそ、かえって危なさがおきる。泣き寝入りなどがおきることになり、自己責任論がおきることになる。

 立ち場を逆にして、信者がお金をもらい、教団が(信者に)お金を払う。そうしたことがあってもよいはずだ。それがなくて、ただ一方的に信者がお金を払うだけで、教団はお金をもらうだけになる。立ち場が固定化してしまっている。

 なぜ立ち場が固定化してしまっていて、立ち場を逆に入れ替えることがなされないのかといえば、教団が、お金をもらう立ち場を手放したくないからだろう。その立ち場が、教団にとって特権になっているのである。何らかの変なよからぬ力学(力関係)がはたらいているから、立ち場が入れ替わらずに固定化されたままになる。

 教団が信者にお金を払う。ふつうのものとは逆のあり方の、そうした教団があったら良さそうだ。信者は、教団からただお金をもらうだけの立ち場である。これは贈与の原理によるものだととらえられる。教団は、あくまでも好きで、信者にお金を払う。教団が好きでやっていることなのだから、悪いことではない、とできるかもしれない。

 国だったら、暴力をうしろだてにして、国民にお金を払わせる。税金の取り立てだ。国は、その地域の暴力を独占している。国の装置である、軍隊や警察をかかえ持つ。

 いちいち、たびたび暴力をじかに使うのではなくて、自発に服従させるようにする。あくまでも自発に、国民が、国の命じたことにしたがう。自発でしたがう国民をつくり上げる。自発の服従だ。(納税の)義務に従わせることができる。税金は、よいことに使われるのもあるから、それを国民から取り立てることが、必ずしも悪いとはいえそうにない。

 宗教の教団は、国のように暴力をうしろだてにはできないだろうから、その代わりに何かでおどして信者にお金を払わせることがあるかもしれない。おどすのではなくても、何かの物語(小さい物語)を信じこませて、お金を払わせる。小さい物語だから、それが通用するところが限られていて、通じない人(信者ではない人)は、お金を払わない。

 参照文献 『目のつけどころ(が悪ければ、論理力も地頭力も、何の役にも立ちません。)』山田真哉(しんや) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『現代思想を読む事典』今村仁司