(新)宗教と、報道と、観念の装置―観念の装置のていどのちがい

 韓国の新宗教(旧統一教会)のことを、どのように見なせるだろうか。良いものなのか、それとも悪いものなのだろうか。悪いカルト(cult)の新宗教なのだろうか。

 信者がいて、信じている人もいることから、韓国の新宗教のことを、良いものだと見なす見なし方がとられているのがある。

 国の観念(ideology)の装置なのが、韓国の新宗教だ。いろいろに見なせる中で、そのように見なしてみたい。ツボ(韓国の新宗教)つまり国の観念の装置である。ツボとは、信者に高いツボをだまして売りつけるのだとされることによる。

 安倍晋三元首相が犯人に殺される事件がおきた。それがおきる前までは、韓国の新宗教のことは、報道されなかった。これは、大手の報道機関が、国の観念の装置の一つであることから来るものだ。

 事件がおきる前までは、韓国の新宗教のことは、報道ではほとんどとり上げられず、見すごされていた。見て見ぬふりをされていた。黙認されていたのである。

 安倍元首相が殺される事件がおきたあとになって、報道で、韓国の新宗教のことがとり上げられ出した。政治と(新)宗教とのつながりが報じられはじめた。自由民主党と、韓国の新宗教とが、ゆ着していたのがとりざたされ出したのである。

 その報道機関が、どれくらい国の観念の装置の色がこいのかがある。こいかうすいかや、強いか弱いかが、あらわれ出る。韓国の新宗教を、どのように報じるのかによって、濃淡や強弱がわかるのである。

 自民党を批判したり、韓国の新宗教を批判したりする。そうした報道をするのなら、そのテレビ番組などは、国の観念の装置である色がうすく、弱い。

 たとえ、自民党を批判したり、韓国の新宗教を批判したりするのだとしても、そのテレビ番組などは、国の観念の装置でないわけではない。報道機関は、国の観念の装置の一つだから、その色がこいかうすいかや、強いか弱いかのちがいがあるのにすぎない。

 自民党をかばったり、韓国の新宗教のことをかばったりする。それらに甘い。批判を行なわない。そういったテレビ番組などは、国の観念の装置の色が濃くて、強い。権力の奴隷であり、たいこ持ちである。

 完全に脱する(脱色する)ことはできないけど、どれだけ国の観念の装置の色をうすめられるのかがある。どれだけ色を弱められるのかがある。報道機関にはそれが求められている。色をうすめて、弱めることによって、公共性がおきることになる。色がこくて、強いのであれば、公共性がもてない。

 ツボ(韓国の新宗教)のことを良しとするのであれば、そのテレビ番組などは、国の観念の装置の色がこくて強い。公共性がない。ツボが国の観念の装置であるのと同じように、そのテレビ番組などもまた、国の観念の装置であることをしめす。ツボも、報道機関も、同じ穴のむじななのである。

 同じ穴のむじなであることから脱して、いかにツボと差別化することができるのかが、報道機関にはのぞまれる。ツボを批判して、自民党を批判して行く。それらのことをやって行くことが、公共性をもつさいにはいることだ。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『公共性 思考のフロンティア』齋藤純一 『そして、メディアは日本を戦争に導いた』半藤一利(はんどうかずとし) 保阪正康(ほさかまさやす)