宗教を信じる自由(信教の自由)と、宗教を報じる自由―宗教への表現の自由はあるのか

 信じる自由である、信教の自由があれば、それでよいのだろうか。宗教のことは、それでうまく行くのだろうか。

 自由では、信じる自由である信教の自由よりも、表現や報道の自由をとり上げてみたい。

 韓国の新宗教(旧統一教会)が悪いことをやっているのは、表現や報道の自由が損なわれていることと関わっているものだろう。

 宗教のほかに、表現や報道の自由が損なわれてしまっているものとしては、天皇制がある。天皇制を批判することは禁忌(taboo)になっているのだ。

 宗教や天皇制のように、批判することが禁忌にされてしまっているものとしては、ほかには日本の国の歴史への批判や、性で男性を優位にするあり方などがある。

 批判が禁忌になって、排除されてしまうと、そのことを批判することができなくなってしまう。批判することができなくなってしまうものとしては、宗教では韓国の新宗教があるし、あとは天皇制や、日本の国の愛国の歴史のあり方や、性では男性中心主義がある。

 どういう自由があるかとはちがって、どういう自由が損なわれているのかを見てみると、信教の自由はとくにそこまで損なわれていないけど、表現や報道の自由が損なわれているのが日本にはあるものだろう。

 たとえ信じる自由がほしょうされていて、信教の自由があるのだとしても、それだからといって、韓国の新宗教がまともなものであることの保証にはなりそうにない。まともさの保証にはならないのは、(自分たちへの)批判を禁忌にして、それを排除してしまっているからだ。

 (自分たちへの)批判を禁忌にして、それを排除するのは、よくないあり方だ。批判してくる人を、標的(target)にして、その人を排除する。そこには効果についての計算がはたらいている。より効果が高い人を計算して、その効果が高い人を標的にして、その人を排除する。

 その宗教が、信じるのに値するものであるためには、虚偽意識になっていないことがのぞましい。虚偽意識になっていると、その宗教は(きびしくいえば)信じるに値するものにはならなくなる。韓国の新宗教は、虚偽意識と化しているから、いろいろな悪さを抱えこんでいるのだ。

 宗教の中には、韓国の新宗教のように、虚偽意識と化してしまっているものがあるし、そのほかには、天皇制や、日本の愛国の歴史や、男性中心主義なんかも、虚偽意識と化しているものだ。

 それを信じたり、良しとしたりするのに、ふさわしくないものが中にはあって、それは虚偽意識と化してしまっているものだ。そうしたものは、どんどん批判がなされないとならないけど、逆にいえば、批判させない圧がはたらいていることから、虚偽意識と化すことになっている。

 何を信じようとも、何を良しとしようとも、それぞれの人の自由ではあるけど、それだと悪い相対主義になってしまう。たとえば、国でいえば、中国のあり方でもよいとか、ロシアのあり方でもよいとか、北朝鮮のあり方でもよい、といった相対主義におちいってしまう。

 国でいったら、中国やロシアや北朝鮮をよしとする人がいてもよいのはあるけど、それらの国は虚偽意識と化しているのがあるから、それらの国へ、内や外から批判がどんどんなされないとならない。中国やロシアや北朝鮮なんかは(そのほかの国でも)、内や外から批判をさせないように圧をかけているのがあって、批判を禁忌にして、それを排除している。

 中国やロシアや北朝鮮と同じように、日本でいえば、韓国の新宗教や、天皇制や、日本の愛国の歴史や、男性中心主義もまた、内や外から批判をさせない圧をかけている。計算をはたらかせて、効果が高い人をねらって、そうした人を標的にして、その人を排除して行く。

 信教の自由があったとしても十分ではなくて、表現や報道の自由がきちんとないとならないのがあるけど、日本ではそれが損なわれてしまっている。批判が禁忌になって、それが排除されてしまっているのがあるから、そこを改めないとならない。批判をどんどん自由にできるようにならないと、(虚偽意識と化してしまっている)韓国の新宗教のことを片づけることはできづらいだろう。

 信じるのであるよりも、(その宗教にたいしての)批判の自由や、批判にたいして閉じていなくて開かれていることが、宗教などにはいることが、見えてくるのがある。宗教だけではなくて、ほかの色々なことでも、批判の自由や、批判に開かれているあり方でないと、そのものが虚偽意識と化すことになってしまう。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫反証主義』小河原(こがわら)誠 『「自由」の危機 息苦しさの正体』藤原辰史(ふじはらたつし)他 『思想読本七 〈歴史認識〉論争』高橋哲哉