お金をうばう宗教と、お金を与える宗教―お金と、価値と、にせのえさ(lure)

 韓国の新宗教(旧統一教会)よりも、ザイム真理教のほうがおそろしい。そう言われていた。ザイムとは、財務省のことであり、緊縮の財政のあり方のことだろう。

 財務省のことを、宗教のように見立てるのは、ふさわしい見なし方なのだろうか。

 国のお金にまつわることを、利益と不利益に分けてみたい。それを、宗教と政治の点から見てみたい。

 宗教の点からすると、利益の分配の宗教と、不利益の分配の宗教があるとできる。

 不利益の分配の宗教だとされるのが財務省だ。不利益を国民に押しつけて行く。できれば入信したくはない宗教だ。

 利益の分配の宗教なのが、反緊縮の政策をよしとするものだ。この宗教で言われていることは、もしかしたら真実かもしれないけど、その確証はない。

 利益の分配の宗教でいわれる反緊縮の政策が、もしも正しいものであり真実なのだとしたら、こんなにおいしい話はない。こんなにうまい話はない。お金のなる木があるようなものであり、ただの(無料の)ご飯があるようなものだ。

 経済学の基本の原則では、お金のなる木はないとされていて、ただのご飯はないとされているから、利益の分配の宗教は現実論としてはなりたちづらい。あくまでも理想論にとどまるものだろう。

 すごくよい宗教なのが利益の分配の宗教であり、それにできれば入信はしたいけど、現実論としてはかなりきびしいものだろう。宗教と現実論とは分けて見なければならない。その宗教を信じたからといって、真に救われるとはかぎらない。かえって苦しむことになることがある。

 宗教としてのよし悪しは置いておくとして、政治についてでは、いぜんの日本では利益の分配の政治ができていた。戦後のしばらくのあいだまではそれができていた。

 資本主義では格差が広がりつづけてしまうけど、格差が広がらずにちぢまることが例外としておきたのがあり、それが二〇世紀の後半の一時期だった。学者のトマ・ピケティ氏による。そのときには、一時的に、日本は利益の分配の政治ができたのである。

 政治では、いまの日本は利益の分配の政治がなりたたない。不利益の分配の政治を避けられない。宗教であれば、その宗教に自分が入信するかしないかを自分で決められるのがあって、できればよくない宗教である不利益の分配の宗教には入信はしたくない。

 宗教だったら、よくない宗教に入信しないようにすることがいちおうできるけど、政治では、いまの日本は不利益の分配の政治を避けられない。そこが、宗教と政治のちがいだと言えそうだ。

 信者にお金を配りまくるような、利益の分配の宗教は、そうしたものがあれば誰だって入信したい。政治で、国民にお金を配りまくるような、すごい利益の分配の政治ができたら、すごいよい国ではあるだろうけど、そんな国が現実にあるとは言えそうにない。

 ザイム真理教が言われているのは、いまの日本は、宗教であるよりは、政治において、不利益の分配の政治を避けられなくなっているのを示す。それが避けられない中では、政治をなすのがとても難しくなっていて、政治の難易度が高まっている。不利益を受け入れてもらうために国民にそれを説明するのは、とてもむずかしい。

 説明を抜きにして、国民に不利益を受け入れさせるのだと、反発がおきる。国民が不利益を受け入れることが正しい(right)ことなのだとしても、そこに力(might)が関わってきてしまい、力づくで従わせることになる。

 国は暴力の装置をもっていて、抑圧の装置(警察や軍隊など)をもっているから、むりやりに国民に不利益を受け入れさせることができる。支配の力を使えばそれができるのがあり、さいごには国はその力を使うことになるだろう。いざとなったらそうすることになる。

 財務省がおそろしいのであるよりも、国がもつ支配の力のほうがこわいかもしれない。国は抑圧の装置をもっているから、いざとなったら、国民がもっている財産や富をごういんにうばいとれる。国民がもつ財産や富を、国のものにできる。

 できれば、うまい形で不利益の分配の政治をやって、国民が不利益を受け入れるようにもって行き、軟着陸(soft landing)したいところだ。おだやかな着陸ができればよいが、それはむずかしいのがあり、荒い着陸(hard landing)になりかねない。荒い着陸は、日本の国がはたんすることであり、経済などでこん乱がおきることだ。国が支配の力を使い、独裁になって、国民の財産や富をごういんに国のものにする。

 参照文献 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一 『貧困と格差 ピケティとマルクスの対話』奥山忠信 『日本国はいくら借金できるのか? 国債破綻ドミノ』川北隆雄現代思想を読む事典』今村仁司編 『法哲学入門』長尾龍一