悪いものと関係をもつことの悪さ―関係することそのものが、それじたいとして悪いことなのか

 これから先は、悪いものとの関係をやめる。関係を断つ。悪い集団である、韓国の新宗教(旧統一教会)とは、もうこれからは関係しないようにするのだと、自民党は言っている。

 悪いものと関係するのは悪いことで、関係しないようにするのは良い。そう言うことはできるのだろうか。

 韓国の新宗教がカルト(cult)だとして、それと関係し合う。宗教と政治とがゆ着し合う。おたがいに関係し合って、交通し合う。関係や交通をするのを、一つの行動だと見なしてみたい。

 行動なのが関係や交通をすることだけど、その行動そのものが客観や本質として悪いのだとは言い切れそうにない。

 たとえ悪い集団だからとはいっても、その集団と関係や交通することは、あくまでも一つの行動だと言えるのにとどまる。その行動が、客観や本質に悪いとまではできそうにない。

 その行動が悪いのだとするのは、その行動そのものについてであるよりも、その行動についてどう反応するのかだ。その行動を悪いことだと見なすのは、その行動について負の反応をすることである。

 反応をするのは、その行動にたいして、解釈や意味づけをすることだ。解釈や意味づけをしないで行動をとらえるのは、反応を抜きにして、行動を即物のものとして(つきはなして)見ることである。

 即物で行動をとらえるのは、枠組み(framework)によらないものだ。人それぞれでちがう枠組みを持っているから、同じ行動にたいしてであっても、反応がちがってくる。その行動にたいして当てはめる枠組みがちがうと、解釈や意味づけのしかたがちがってくるから、ちがう反応になる。

 かりに、自由民主党ではなくて、左派の政党が、韓国の新宗教と深く関係し合って、交通し合っていたとするのなら、その左派の政党はぼこぼこに叩かれていただろう。生やさしい叩かれ方ではすまされなかっただろう。

 同じように、悪い集団と関係し合って、交通し合うのだとしても、それが自民党であるのか、それともそれとはちがう左派の政党であるのかによって、叩かれ方のきびしさがちがう。自民党だったら叩かれ方が甘い。甘く許されるところがある。もしも左派の政党が、自民党と同じことをしていたとするのなら、とんでもなくきびしい叩かれ方をされることになっただろう。

 同じように悪いことをしたのだとしても、自民党と、それとはちがう左派の政党とでは、おきる反応がちがう。おきる反応がちがうのは、その行動(悪い行動)そのものがどうかであるよりも、その行動にたいしてどのように反応するのかが重みをもつからである。

 その行動が、どれくらい悪いものなのかを見るためには、その行動にたいして、どのような反応がおきるのかをくみ入れたい。自民党がやった悪い行動があるとして、その行動だけをとり上げるのではなくて、同じ行動を、自民党ではないほかの左派の政党がやったさいに、どういう反応がおきるかを見て行く。

 自由主義(liberalism)でいわれる、反転の可能性の試しをやってみて、自民党を、ほかの左派の政党に、入れ替えてみる。反転させてみる。または、有名な芸能人に入れ替えてみる。

 自民党ではないほかの左派の政党や、有名な芸能人が、その行動をやったら、ぼこぼこに叩かれるけど、自民党だったら甘く許される。叩かれ方が甘くなる。同じ行動でも、だれがその行動をとったのかによって、反応に差があるのだ。

 行動そのものが、客観や本質に悪いとは言い切れないところがあるから、それにたいする反応がどうなのかを、(行動と反応の)組みで見てみたい。自由主義の反転の可能性の試しをやって見るようにしたい。それで、自民党ではない、ほかの左派の政党などだったらぼこぼこに叩かれるような行動だとしたら、それがその行動にたいする適した反応のしかたである見こみがある。自民党だと、悪い行動にたいしての反応が甘めになってしまうからだ。

 もしも、左派の政党や、有名な芸能人が、何か悪いことをやったとしても、そこで、反転の可能性の試しをやってみる。同じことを、自民党の政治家がやったとしたら、甘く許されることが多いから、行動そのものが客観や本質として悪いとは言い切れないのが見えてくる。

 たんに、その行動が悪いのだとするのであるよりも、それにたいする反応があるから、それらを組みで見てみて、色々な反応があったほうがよい。いろいろな反応のうちで、どれがいちばん正しいかはわからないのがあるから、色々な反応に接することができたほうが益になる。一個しか反応がおきないのだと、それがまちがったものであったさいに、全体がまちがった方向に向かってつっ走っていってしまいかねない。

 悪い行動にたいしては、きちんと批判の反応をすることがいるけど、それとともに、行動と反応を組みで見るようにして、行動を即物で見ることもあればよい。行動を即物で見てみると、それにたいする反応は、時代とともに移り変わるところがあり、どういう時代かまたはどういう地域(場所)かでちがってくる。

 いまとかつてのいまかつて間の時間の交通で見てみると、同じ行動でも、かつてはまちがった反応をしていたが、いまではそれが改まってよい反応がおきるようになったものがある。未来から見てみれば、いまにおいて、ある行動への反応のしかたがとられていて、その反応のしかたがまちがっているものがあるものだろう。いままちがった反応をしているものがあるとして、それが未来においては正される。そうしたものが中にはありそうだ。

 いまは当たり前のこととして、その行動への反応がなされているものであっても、未来においてはより正しい反応のしかたに改められる。そういったものが中にはあることがおしはかれる。いま、当たり前になされている(ある行動にたいする)反応でも、それがまちがったものである見こみがある。いま、自民党を甘く見逃す反応がされがちだけど、それはまちがった反応のしかたである見こみが少なくないだろう。

 まちがった反応をしていることで、どんどん日本をはめつの方向に向かわせてしまっていたのが、未来になってみたらわかった、なんてことがなくはない。自民党がやったことへの反応のしかたは、人それぞれで自由であるのがよいけど、甘めではなくてきびしい反応のしかたのほうがよいのだと見なしたい。

 参照文献 『日本の刑罰は重いか軽いか』王雲海(おううんかい) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき)