維新の会は、まったくもって完全にまちがっているのか―完全に悪いと言えるのか

 野党どうしが、いっしょに組んでやって行く。野党の立憲民主党は、おなじ野党の日本維新の会と組むことを探っているという。

 立憲民主党と維新の会は、仲が悪くて、犬猿の仲のようであり、もっぱら維新の会が立憲民主党のことを悪く言っている。そうでありながら、いっしょにやって行くことも探られている。

 維新の会は、立憲民主党のことを悪く言いながらも、立憲民主党といっしょに組むことを必ずしもこばまない。もしもそうなのだとすれば、維新の会は立憲民主党のことをそれほどきらいではないのかもしれない。ものすごくきらいなのであれば、いっしょにやって行くことは選択肢の中に入らないだろうからだ。

 維新の会はものすごく悪いから、立憲民主党は維新の会といっしょに組むべきではない。そういうことが言えるのだろうか。維新の会は、そうとうに悪いところがあり、批判せざるをえないのがあるが、どこからどこまでも完ぺきにまちがっているとも言い切れないところがある。完全な悪だとは言い切れそうにない。

 まったく誰からも支持されていないのではなくて、一定の支持を得ているのが維新の会だ。そうであることから、維新の会を完ぺきには否定し切ることはできづらい。

 新自由主義(neoliberalism)によっているのが維新の会だが、新自由主義については批判をせざるをえないが、それが完ぺきにまちがったものだとは言い切れないのがある。新自由主義を否定し切ることができづらいのがある。

 どこからどこまでも完ぺきにまちがっているとは言えず、少しくらいは理があるのが維新の会だと言える。まったくすこしの理もないとは言えないところがある。ことわざでは、盗人にも三分の理と言われる。

 かりに、維新の会とは反対の政策を行なおうとするのだとしても、それがむずかしいのがある。日本の国の財政は、そうとうな赤字を抱えていて、そうとうに苦しいありさまだ。財政にゆとりがなくなってしまっていることから、不利益分配の政治をせざるをえない。

 日本の国の経済が上向きだったころは、利益分配の政治ができた。それがいまではできなくなっていて、不利益分配の政治をせざるをえない。そこから維新の会のような政党が出てきてしまっている。それが出てきているのは、日本の国が不利益分配の政治を避けられなくなっているのをうつし出している。

 理想論と現実論がある中で、現実論によるのだとすれば、維新の会には少しは理がある。現実論からすると、維新の会を完ぺきには否定し切れない。

 かりに維新の会が悪いのだとしても、それはたんに維新の会だけが悪いのではなくて、悪いことが広く遍在化してしまっている。悪いことが一か所にこり固まっているのであるよりは、あちこちに悪いものが広く散らばっている。よい人がいて、悪い人がいるといったふうであるよりは、みんなが多かれ少なかれ悪さをもつ。

 自分がもっている既得権益や、自分がもっている利益を、はたしてどれだけゆずることができるだろうか。どうしても、自分がもつ既得権益や利益を、ゆずることはできづらい。人情としてどうしてもそうなってしまうのがあり、それによって、悪さがおきてしまう。

 不利益分配の政治がおきている中で、だれしもが、自分がもっている利益を手放したくはない。だれにどうやって不利益を押しつけるのかの争い合いがおきることになる。自分からすすんで不利益を引き受けようとする人は出ては来ない。自分はできるだけ不利益を引き受けなくてすむようにして行く。争い合いがおきることになる。

 ひとによっては、すでに不利益を大きくこうむっている人がいて、これ以上の不利益を引き受けることはできない人も中にはいるだろう。そういった人のことを否定するわけではないけど、どこかにかたよって不利益をこうむる人がおきてしまっているのが一つにはある。不利益がかたよって押しつけられているのだ。特定の人や、特定の地域や、または時間でいえば将来(未来)の国民などに、かたよって不利益が押しつけられている。

 すでに大きな不利益をかたよってこうむっている人は、救われることがいる。それを不利益分配の政治の文脈によって見てみられる。だれがどれくらいの不利益を引き受けるのがふさわしいのかが、改めて探られないとならない。不利益を引き受けるまたは押しつけられることの構築のあり方が、改められることがいり、よりよい構築のしかたに再構築されることがいる。

 不利益をどこかまたはだれかにかたよって押しつける構築のあり方があり、その構築のあり方の中に、ゆがみやひずみが大きくたまっている。構築の中に、ゆがみやひずみが大きくたまってしまっていることから、ひと筋なわでは行かなくなっている。こうすればうまく行くといった決定打を打ちづらい。出口が見えない中で、不利益分配の政治の争い合いが行なわれることになる。

 構築のあり方にゆがみやひずみが大きくたまってしまっている中において、いろいろなことについての説明ができづらくなっている。なぜそうであるのかについての説明をしづらい。

 かんたんにはものごとを割り切ることができなくなっていて、正と負をきれいに分けづらい。国の財政では、借金をしつづけてきていることによって、借金が大きくたまっている。それは日本の国が抱えているゆがみやひずみの一つだ。借金をしつづけてきていることで、ゆがみやひずみをためつづけてきている。

 維新の会は、理想論と現実論でいえば、現実論をふまえているところが部分としてはあり、その点については完ぺきには否定し切れないところがある。日本の国は不利益分配の政治を避けられなくなっているのが現実としてあり、その争い合いがおきている中で、維新の会は出てきている。

 日本の国は、ゆがみやひずみが大きくたまっていて、ぜい弱性を抱えているのがあるから、その現実をふまえるようにして行く。そうしながら、維新の会を批判して行くことがいる。たとえ維新の会を批判するのにせよ、日本の国が抱えているゆがみやひずみやぜい弱性がきれいに無くなってくれるわけではなく、それらはいぜんとしてありつづける。

 維新の会がやっかいであるのとともに、それだけではなくて、そもそも日本の国には出口がなくなっていて、ゆがみやひずみやぜい弱性があることからやっかいさがおきていることは無視することができづらい。

 人間は過剰性の活力をもっているが、蓄積と蕩尽(とうじん)の二つの極がある中で、蕩尽の極に向かうさいに危なさがおきることがある。維新の会は、蕩尽の極に向かうことの危なさをもつ。悪いかたちで蕩尽の極に向かってしまうと、戦争に向かったり人の命を軽んじたりすることになる。

 悪いかたちでの蕩尽の極に向かうのを、どれだけ防ぐことができるのかが大切だ。いまの日本の国は、悪いかたちの蕩尽の極に向かう危なさがおきている。よい形の蕩尽の極に向かうようにして行けたらよい。悪い形ではなくてよい形で、蕩尽や消尽(しょうじん)の極に向かって行く。よい形としては、少数者を承認をしていったり少数者に分配をしていったりする。

 維新の会は、よい形ではなくて、悪いかたちの蕩尽の極に向かおうとする危なさをもつが、そのことをどれだけ否定することができるのかは心もとない。悪いかたちで蕩尽の極に向かうのをのぞんでしまっていたり、それをやむをえないことだとしてしまっていたりする。

 維新の会の動きに、あらがい切れないところがあり、そこに悪さがあるといえる。どれだけあらがえるかが試されている。あらがうことに失敗してしまうところがあるのは、どうしても自分の利益を手放したくはないのがあり、自分が不利益をすすんで引き受けるのをこばんでしまうのがあるからだ。自分が負担をするのをいやがってしまい、きらってしまうのがある。すべての人が、もれなく、負担を好んでたくさんしていれば、もっと日本の国のあり方は(少なくともいまよりは)よくなっているのではないだろうか。

 参照文献 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『国債暴落』高田創 住友謙一