憲法についての国民投票の機会が、国民からうばわれているのか―国民は機会を得るべきなのか

 憲法を改正する。改正のための国民投票を行なう。その機会を、国民はうばわれている。与党である自由民主党の政治家はそう言っていた。

 自民党の政治家が言うように、憲法についての国民投票の機会を国民はうばわれているのだろうか。国民投票をやる機会を国民は得なければならないのだろうか。

 国民投票は、間接にではなくて、じかに国民が政治のものごとを決めるものだろう。それをやろうとするのであれば、憲法のことについてだけではなくて、ほかのあらゆる政治のことがらについてもやるべきだろう。憲法のことについてだけを特権化することはできづらい。

 国の政治家がなぜいるのかといえば、それはあらゆることについて国民が国民投票などによっていちいち決めなくてもよいようにするためだ。国民から国民投票の機会をうばっているのは、政治家がいることによる。国民から国民投票の機会をうばっているのは政治家がいることによるのだから、機会をうばっているのがよくないと政治家が言うのは矛盾しているところがある。

 国民投票をやることについてを、正の含意でとらえられるとは必ずしも言えそうにない。国民投票をやることに正の含意をもたせるのではなくて、それを中立の点から見てみたい。中立の点から見ると、国民投票をやりさえすればそれでよいとは言えない。

 じかに国民が国民投票によって決めるよりも、間接に政治家が決めたほうがよいのだとする見かたがなりたつ。その見かたがなりたつことによって、間接の民主主義の仕組みがとられるのがある。

 あらゆることについての専門家なのではないのが国民だ。すべてのことについての専門性を持っているのではないのが国民だから、いろいろなことについてを、国民ではなくて専門家を重んじて行く。くわしく知っているのが専門家だから、何でもかんでも国民が決めるのではなくて、専門家のさまざまな意見を十分に重んじて行くほうが合理的だとも言えるだろう。

 事前と事後に分けてみると、事前とはちがったことが、事後になっておきることが国民投票ではある。イギリスで、欧州連合(European Union)から離れるかどうかが国民投票によって決められたが、それが行なわれた事後になって、決めたことに揺れがおきた。揺らぎがないのではなくて、事後になって揺れがおきたのがあり、はたして国民投票をやったことがよかったのかそれともそうではなかったのかがいちがいには言えないのがある。

 含意をこめるのではなくて、中立の点からなるべく見るようにしてみれば、国民投票の機会が国民からうばわれていることが、必ずしも悪いとは言い切れそうにはない。その機会がうばわれているのは、国の政治家がいるからなのがあるし、間接の民主主義の仕組みがとられているからなのがある。

 国民がじかに政治のものごとを決めるのは、大衆がものごとを決めることになる。国民は大衆なのがあり、大衆はしっかりと政治のものごとを自立して決められるとはかぎらない。大衆がもっている危なさがある。

 いまの社会は、複雑性が高くなっているのがあり、国民つまり大衆がいろいろなことについてを深く知ることはできづらい。大衆に、いろいろなものごとについてをきちんと決める能力があるのかと言えば、それははなはだしく心もとない。複雑性が高い社会の中で、あらゆることについてを、正確にきちんと理解して、どうであるべきなのかを完ぺきに正しい形で決めるのは困難だ。

 あまりふつうの人びとである大衆についてを上からの目線によって否定するべきではないのは確かだ。上からの目線で人々を否定するのはあまりよいことではないが、日本の国のあり方では、個人の自己統治や自己実現をよしとするようにはなっていないのがある。個人が自立していろいろなことについてを見ていって決めて行くのが、よしとはされていない。お上に任せるべきだとなっている。

 日本の国のあり方は、個人に重みが置かれているとは言えないから、国民投票によって国民がものごとを決めるための準備が整っているとは言えそうにない。日本よりもより個人に重みが置かれているイギリスのような国であってさえも、国民投票は必ずしも良いようにははたらかない。イギリスであっても難しさがあるのだから、日本ではなおさら難しさがある。比較するとそう言えそうだ。

 参照文献 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『広告が憲法を殺す日 国民投票プロパガンダ CM』本間龍 南部義典(なんぶよしのり)