国の政治家がうそをつかないようにするために、うそを禁じる法律をつくることはいるのか―政治家への信頼と不信

 国の政治家がうそをつく。日本の政治ではそれが多くおきてしまっている。与党である自由民主党で首相をつとめた政治家は、少なくとも国会において一〇〇回より以上のうそをついたことがわかっている。この数字はあくまでもほんの氷山の一角にすぎないものだろう。

 国の政治家がうそをつかないようにする。そのために国の政治家がうそをついたら罰せられるような法律をつくる。国会で政治家がうそをつくことを禁じる法律をつくる必要があることがほかのところで言われていた。政治家のうそを防ぐために、うそを禁じる法律をつくる必要はあるのだろうか。

 たしかに、国の政治家は表象(representation)にすぎないものだから、国民そのもの(presentation)とはちがっている。国民そのものとはずれているのが国の政治家だから、国民にうそをつく。それがおきやすい。

 うそをたくさんつかれてしまうと、国の政治家のことを信頼しづらい。不信がおきてくる。おたがいに価値を共有できなくなる。おたがいに枠組み(framework)が合わない。きびしく見られるとすると、それがいまの日本の政治のありさまだと見られる。信頼のしようがなくて、不信のままでありつづけている。国の政治家がいくらうそをついたとしても、それが許されてしまっていて、再発の防止の手だてがまったくといってよいほどにとられていないからだ。

 形式論と実質論で見てみられるとすると、法律をつくるのは形式をつくることに当たる。たとえ形式である法律をつくるのだとしても、いろいろな抜け道や抜け穴ができてしまう。ざる法のようになってしまう。具体の義務ではなくて、あくまでも努力目標のようにしてしまう。そうなってしまうと、形式が形式として通じなくなりかねない。

 法の網の目は、上に甘くて下にきびしい。うそを禁じる法律をつくったとしても、形式の法の決まりは上に甘くなりがちだから、かんたんに破られてしまうかもしれない。強者は法の網の目にからめ取られるのではなくて、それをつき破って飛んで行く。弱者だけがそれにからめ取られる。古代ギリシアではそう言われていたという。

 実質論から見てみられるとすると、実質として国の政治家にうそをつかせないようにするには、じかにうそを禁じる法律をつくるのとはちがう手だてとして、情報の公開と透明化があげられる。情報を民主化するようにして、公開性と透明性をしっかりとすれば、国の政治家がうそをつきづらくなることが見こめる。

 有権者である国民が自己実現と自己統治をしっかりとすることができるように、情報を民主化して行く。政治において笑劇や悲劇の序章がおきないようにするためには、できるだけ国民にいろいろな情報が広く知られるようになっていることがのぞましい。情報の自由度が高いほうがよい。アメリカの大統領だったジェームズ・マディソン氏はそう言っている。

 明治の時代から日本の政治はお上や役人が牛耳ってきている。国民が主となっていなくて、お上や役人が主となってきている。それを改めるようにすることによって、国の政治家がうそをつきづらくすることが見こめる。

 政治において記録される文書は、日本においては明治の時代から国民のためのものではなかった。国民のためのものではなくて、政治において主とされる国の政治家や役人のためのものだったのである。それがあることによって、いざとなったら国の政治家や役人は公の文書をかんたんに捨ててしまう。改ざんしてしまう。国民が主とはなっていないためである。

 お上や役人が政治において主となっていることが、政治においてうそがつかれることの温床となっているのがあるから、そこが改まったらよい。憲法でうたわれているようには、まだまだ国民主権主義がしっかりとは根づいていないのがありそうだ。有権者である国民が自己実現と自己統治をしっかりとできるようになっているのだとは言えそうにない。自律(autonomy)ではなくて他律(heteronomy)によって国民が動かされるようなところがあり、大衆迎合主義(populism)の危うさがある。

 参照文献 『安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方』山岸俊男 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『情報政治学講義』高瀬淳一 『国家と秘密 隠される公文書』久保亨(とおる) 瀬畑源(せばたはじめ) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『法哲学入門』長尾龍一