維新の会が、どんどん裁判で人を訴えているのは、よいことなのか―訴えるのは適した手段だと言えるのか

 自分たちを批判してくる人を、どんどん裁判で訴えて行く。野党である日本維新の会は、批判してくる人をどんどん訴えていっている。有名な人がその標的(target)になりやすい。

 維新の会がやっているように、自分たちを批判してくる人をどんどん訴えて行くのはよいことなのだろうか。とにかくどんどん訴えて行くのは、どうかつ訴訟だと言われている。

 訴えたり訴えられたりするのは、お互いのあいだに紛争がおきていることをしめす。紛争を何とかするための手だての一つとして、裁判に訴えることが行なわれる。

 政治家や有名な人は、公人に当たるのがあり、私人だとは言えそうにない。政治家などの公人は、自分の言いぶんをうったえる機会をいろいろに持ちやすい。テレビに出ているのであれば、テレビにおいて自分の言いぶんをうったえる機会を持てる。

 維新の会の政治家や維新の関係者は、テレビにも出ることができるのだから、公人に当たるといえて、自分の言いぶんをいろいろに言う機会を持ちやすい。言う機会が限られているのではないのだから、やたらに裁判に訴えるのはふさわしいことだとは言えそうにない。公人に当たるのがあるのだから、裁判に訴えるのはできるだけひかえるようにして、他からの批判に開かれているようにしないとならない。

 有名な人であるほど、維新の会から訴えられるおそれが高いが、日本の芸能界のありようを見てみれば、そこに見てとれるのはいしゅくやゆ着だ。やたらに裁判に訴えるのは、いしゅくやゆ着を改めることにははたらかずに、むしろそれらを強めてしまう。

 日本の芸能界で、きちんと政治の批判を言う人は少ない。日本の芸能界では、政治とのゆ着がおきてしまっていて、自由に色々なことが言われていない。政治の権力との距離がとれなくなっていて、距離がゼロになってしまっていて、まひがおきている。政治の権力との距離感が失われてしまっている。

 日本の芸能界で、政治の権力との距離感が失われていることを、維新の会はとり上げなければならない。距離感が失われていることをとり上げないとならないが、それをやっていないのが維新の会だ。むしろ、距離感を失わせているのが維新の会である。

 いしゅくやゆ着がまん延している中で、批判の声をあげて、自分なりにものを言う人は数が少ない。その数が少ない人を、標的にして、裁判で訴えているのが維新の会だ。そもそも数が少ないのを、さらに叩いてしまっているのである。

 どういうところに悪い点があるのかといえば、有名人が、維新の会のことを批判するのが悪いのだとは言えそうにない。維新の会や、与党である自由民主党を批判するのが悪いのではなくて、その逆に、批判の声をあげないことに悪さがある。政治の権力との距離感が失われてしまっていて、まひがおきていて、いしゅくやゆ着がおきている。権力の奴隷がたくさんいて、ごまをする人やたいこ持ちや茶坊主がたくさんいる(たくさんいすぎる)ことにまずさがある。そう見なしてみたい。

 参照文献 『名誉毀損 表現の自由をめぐる攻防』山田隆司(やまだりゅうじ) 『楽々政治学のススメ 小難しいばかりが政治学じゃない!』西川伸一 『現代思想を読む事典』今村仁司