権力者をそんたくして気づかう報道のあり方でよいのか―権力者のたいこ持ちや奴隷(どれい)の報道の悪さ

 政治の権力者にたいして、記者はどのように取材をするべきなのだろうか。

 日本の保守の報道機関は、政治の権力者にすごく甘い。保守の政治家にたいして、すごく甘さがある。

 西洋は分析のあり方だから、政治家を対象化しやすい。

 日本は東洋で、包括(包摂)のあり方だ。包括によることから、政治家と記者が一体化しがちだ。

 分析のあり方のように、政治家を対象化して、政治家と一定の距離をとりづらいのが、包括のあり方だ。

 西洋の分析のあり方よりも、よりだらくしがちなのが包括のあり方だ。より退廃(decadence)しやすい。

 日本は包括のあり方だから、報道がだらくしやすいのがあり、とくに保守の報道機関はだらくがきわ立っている。

 政治家と報道機関とのゆ着がおきているのがあって、政と報の複合体が日本ではおきている。情報が統制されている。

 いまの日本の状況は、国を絶対化しないで、いかに国を相対化できるのかが大事だろう。国を超えた越境(trans national)のあり方が求められている。

 国の経済がうんと成長していて、利益の分配の政治ができていたときには、包括のあり方の悪さがそこまで強くは出づらい。包括のあり方で、この政治家はこう言ったとかああ言った(He/She says.)とかといった報道をやっていても、それがすごくわざわいすることはおきづらい。

 かつての利益の分配の政治ができていた状況とはちがっているのが、いまの日本の状況だろう。いまは不利益の分配の政治をやらざるをえなくなっているのがあるから、この政治家はこう言ったとかああ言ったとかの報道が、わざわいするのが大きくなっている。

 いまの状況においてどういう報道をするのがのぞましいのかといえば、これまでのようにこの政治家はこう言ったとかああ言ったとの報道をやることだとはいえそうにない。それをやってしまうと、わざわいするのが大きくなっているから、記者が個人として私はこう考える(I think.)とする報道をやることがいる。

 日本では、記者が個人として私はこう考えるとする報道ができづらい。日本は国が上から、個人にたいして、ものを考えるなとしているのがある。個人にたいして思考を禁じているのが日本にはあるから、それが報道のあり方にもあらわれ出ている。

 政治家がこう言ったとかああ言ったとかの報道だけがなされて、私はこう考えるとする報道が欠けていると、自由主義(liberalism)の点でまずい。つねに政治家にたいして批判のかまえの報道をしつづけているのでないと、自由主義がこわれてしまう。抑制と均衡(checks and balances)がはたらかなくなるし、普遍化できない差別がおきてしまう。

 国の政治の権力と、一定の距離をとらないとならないのが報道機関だ。国と報道が一定の距離をとらないと、国家主義(nationalism)になってしまい、専制におちいる。政と報がゆ着していると、政治の距離がゼロになり、まひがおきてしまう。まひしていると政治家にだまされやすい。こわれてしまっている自由主義を立て直すようにすることがいる。

 参照文献 『木を見る西洋人 森を見る東洋人―思考の違いはいかにして生まれるか』リチャード・E・ニスベット 村本由紀子訳 『共謀者たち 政治家と新聞記者を繋(つな)ぐ暗黒回廊(かいろう)』河野太郎 牧野洋(よう) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫現代思想を読む事典』今村仁司編 『楽々政治学のススメ 小難しいばかりが政治学じゃない!』西川伸一 『絶対に知っておくべき日本と日本人の一〇大問題』星浩(ほしひろし) 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一 『公共性 思考のフロンティア』齋藤純一