信教の自由が、日本にはあるのか―何々教の信者(何々教徒)としての日本人

 日本には、はたして信教の自由があるのだろうか。

 日本人は、みんな日本教の教徒であり、天皇教の教徒だとされるのがある。評論家の山本七平氏による。

 政治と宗教とのゆ着で、韓国の新宗教(旧統一教会)は日本の政治にふかく食いこんでいる。与党である自由民主党と一体化しているのが韓国の新宗教だ。

 日本人は、みんな韓国の新宗教の信者なのだと言えなくはない。韓国の新宗教をじかに信じている信者だけではなくて、広く見てみれば、日本人のぜんぶが、韓国の新宗教の信者にさせられている。

 自民党と韓国の新宗教は、ゆ着し合っていて、複合体になっている。自民党が支配しているいまの日本は、韓国の新宗教が日本を支配しているのだと言ってもまちがいではない。日本は、宗教によって支配されている。日本人は、信者にさせられている。

 かつての戦前の日本は、国家神道がとられていて、天皇を神とする宗教によっていた。日本人のすべてが国家神道を信じさせられていた。天皇を神としてあがめなければならなかった。

 かつてはあったけど、いまはなくなったものなのが国家神道だ。いまは国家神道はないけど、宗教のあり方がとられているのがある。いま日本でとられている宗教としては、日本の国そのもの、自民党天皇制、アメリカ、韓国の新宗教などをあげられる。これらはそれぞれが別々のものなのではなくて、一つながりのものだろう。

 すべての日本人がむりやりに信じさせられていたのが、かつてにおいての国家神道だけど、そのあり方とそう遠くないのが、いまの日本のあり方だろう。かつてとそう遠くないあり方になっているのがいまの日本であり、国家神道の代わりに、日本の国そのもの、自民党天皇制、アメリカ、韓国の新宗教などが宗教として機能している。

 国家神道は、日本の国の全体を上からおおうものだったけど、それと同じものなのが、自民党天皇制、アメリカ、韓国の新宗教などなのである。

 上から全体をおおうあり方の宗教だったのが、かつての国家神道だ。そのあり方だと、天がいの宗教になってしまう。これは学者のピーター・L・バーガー氏が言っているものだ。

 天がいの宗教だと、信教の自由があるようでいて、無いことになってしまう。日本には信教の自由があるのだとはいっても、かつての国家神道のような、自民党天皇制、アメリカ、韓国の新宗教などがあるから、自由が損なわれているのがある。

 それを信じないで、信者ではないようでいられる自由がなかったのが、かつての国家神道だ。すべての日本人が国家神道を信じさせられた。それは国家神道が天がいの宗教だったからである。

 いまにおいての天がいの宗教としては、自民党天皇制、アメリカ、韓国の新宗教などがある。戦前とそう遠くはないあり方になっているのがいまの日本であり、すべての日本人が、韓国の新宗教の信者にさせられてしまっているのだと言っても言いすぎではない。

 宗教の二世のことがあるけど、たまたまぐう然にその家に生まれただけで、韓国の新宗教を子どもが信じさせられてしまう。それと似たように、たまたま日本(日本つまり巨大な家)に生まれただけで、そこでの宗教である、自民党天皇制、アメリカ、韓国の新宗教などを信じさせられて、それらの信者にさせられてしまう。

 すべての日本人が、日本つまり巨大な家の中でとられている宗教の信者であることに、むりやりさせられてしまう。そこに自由はない。その点で、宗教の二世のことは、すべての日本人にとって、必ずしもまったくの他人ごとだとはいえないかもしれない。

 参照文献 『山本七平(しちへい)の思想 日本教天皇制の七〇年』東谷暁(ひがしたにさとし) 『日本国民のための愛国の教科書』将基面貴巳(しょうぎめんたかし) 『離脱願望 唯物論で読むオウムの物語』亀山純生(すみお)、中西新太郎、後藤道夫他 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『国体論 菊と星条旗白井聡(さとし) 『神、この人間的なもの 宗教をめぐる精神科医の対話』なだいなだ