日本の政治の、新宗教による汚染と、公共性―日本の政治や報道の、公共性の欠如

 政党と、韓国の新宗教(旧統一教会)とがゆ着することに、どういった悪さがあるのだろうか。

 公共性が欠けてしまうことにまずさがある。

 公共性では、開かれていること(open)と、公式であること(official)と、共通であること(common)があげられる。

 裏でこそこそと、与党である自由民主党と、韓国の新宗教がつながっていた。安倍晋三元首相が殺されたことによって、それが表にあらわれ出てきている。安倍元首相が殺された事件そのものは、あるべきことではなかったのは確かだ。

 政治と宗教である、政と宗が、交通し合う。その宗教が、カルト(cult)の新宗教だと、公共性の点で悪さがおきてくる。

 政と宗が交通し合うのであれば、それが表で堂々となされることがいる。裏でこそこそやっているのだと、あやしさが満点である。

 政と交通し合っている宗が、カルトの新宗教ではないかどうかが、十分に分析されなければならない。その新宗教が、どういった機能や構造をもっているのかが、明らかにされないとならない。

 自民党と韓国の新宗教との交通のあり方は、公共性の点で悪さがある。開かれていないし、非公式のものだし、共通性がうすい。その新宗教の教義(dogma、assumption)をよしとする人にしか関わりがないものだ。

 宗教は、その教義をよしとする信者にとっては意味があることだけど、そうではない人には意味がない。関係がない。広く日本人の一般に共通のことではないから、日本または日本人の全体に関わることではない。

 日本または日本人の全体に広くまんべんなく利益になることであれば、公共性がある。公共の福祉に当てはまる。宗教は、その教義をよしとする人(信者)にしか利益にならないことだから、公共の福祉になるものだとまでは言えない。ある人たちにだけ利益になるものだ。

 カルトの新宗教に、日本の政治がつけこまれる。汚染される。そうならないようにするためには、公共性をしっかりととるようにして行く。公共性が欠けないようにして行く。政治や報道で、公共性をしっかりとふまえて行くことが必要だった。そこが欠けていたから、日本の政治は、韓国の新宗教につけこまれて、汚染された。

 日本の報道に、もっと公共性がしっかりとあって、公共の放送のあり方になっていれば、カルトの宗教のことをしっかりと批判できた。カルトの宗教の被害者のことを、しっかりととり上げることができただろう。韓国の新宗教がもたらす害や悪影響を、とり上げることができた。政と宗のゆ着を、批判としてとり上げることができて、批判を投げかけることができたはずである。

 政治や報道において、もっと公共性をしっかりとなして行くようにしないとならない。政や報に、公共性が欠けていることを認識して、そこを改めて行く。他国(と自国)の新宗教が、日本の政治を汚染しているのは、それをさし示している。

 参照文献 『公共性 思考のフロンティア』齋藤純一 『NHK 問題』武田徹 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一