日本の国と、宗教への甘さ―カルト(cult)などの悪い宗教(または宗教の一般)にたいしてきびしさが欠けている

 なぜ日本は宗教に甘さがあるのだろうか。国の政治と宗教とが結びついてゆ着しやすいのだろうか。

 日本は宗教と近しさがある。宗教は、価値によるものであり、何々するべきの道(何々道)のあり方だ。

 宗教は日本が好むところのものである。何々するべきだの道(何々道)を好む。

 日本できらわれやすいのが自由だ。自由主義(liberalism)がきらわれやすい。自由主義者はきらわれ者になりやすい。

 どんどん右傾化していっているのが日本の政治ではおきている。この右傾化は、反自由になっているのをしめす。反自由の政治になっていて、宗教化していっている。宗教とのゆ着が深まっている。

 対比して見てみると、もともと日本では自由よりも宗教のほうが好まれやすい。自由と宗教だったら、自由を捨てて、宗教のほうを取る。

 自由ではなくて、宗教のような、何々であるべきとか、道(何々道)のあり方をとるのが日本にはある。何々であるべきの道のあり方は、かくあるべきの当為(sollen)であり、上からの正義だ。

 かくあるべきの当為で、上からの正義による。そのことによって、かくあるの実在(sein)が軽んじられやすい。かくあるの実在を軽んじて、かくあるべきの当為をうんと重んじてしまう。

 世俗のあり方だったらまだわりあい安全性がある。世俗のあり方は自由主義功利主義のあり方だ。世俗のあり方であれば個人がとれる自由の広さが広めだから、個人の自由をほしょうしやすい。

 宗教のあり方だと、世俗のあり方を超えてしまい、正しさを強く持つことになる。正しいあり方を強く持つことになって、個人の自由がせばまってしまう。個人の自由をほしょうできなくなり、個人が得られる効用(満足)が減ってしまう。

 どういうふうな性格を持っているのが日本の国なのかがあって、それを見てみると、宗教や道(何々道)のあり方を好みやすくて、自由をきらいやすいから、それを改めるようにして行きたい。自由をきらうのが日本の国だけど、そうではなくて、自由を好む国であれば、日本の国の中の個人がもっと生きて行きやすくなるのではないだろうか。

 宗教と自由を対比してみると、宗教によりやすいのが日本の国だから、日本の国のことを良しとしてしまうと、宗教や道(何々道)のあり方をよしとすることになる。日本の国のことをうかつによしとするのではなくて、批判をするようにして、きらわれがちな自由を良しとして行く。

 自由主義がこわされているのを立て直すようにして、自由を良しとして行くことが、宗教への甘さを改めることにつながって行く。政治と宗教とのゆ着の深まりを改めることにつながって行くことになる。そう見なしてみたい。

 参照文献 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『現代倫理学入門』加藤尚武(ひさたけ) 『吉田秀和 音楽を語る 上・下』吉田秀和 『右傾化する日本政治』中野晃一 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし) 『山本七平(しちへい)の思想 日本教天皇制の七〇年』東谷暁(ひがしたにさとし)