ウイルスの感染の広がりを戦争になぞらえて見てみたい―蓄積と蕩尽(とうじん)の両極性

 ウイルスの感染の広がりを、戦争になぞらえることができるかもしれない。戦争になぞらえることは必ずしもふさわしいことではないかもしれないが、そこに類似性があると見なしてみたい。そこからどのようなことが言えるだろうか。

 人間がもつ活力の過剰性があり、蓄積と蕩尽の両極性がおきる。ふり子の二つの極の両極性だ。このうちで戦争は悪い形での蕩尽に当てはまる。悪い形でふり子が一つの極に向かって振れていってしまう。蕩尽はそれまでに蓄積してきたものを使いつくすことだ。新型コロナウイルス(SARS-CoV-2)への感染が広がっているのは、いままでの蓄積のあり方がなりたちづらくなっていることをしめす。

 ウイルスの感染が広がっているのは悪い形での蕩尽だ。これをそのまま放ったらかしにしておけば悪い形での蕩尽が拡大化していってしまう。何らかの手を打つことがいる。

 何らかの手を打つさいに、よい形での蕩尽があげられる。よい形での蕩尽は贈与の原理による。贈与の原理によることによって、資本主義による市場(等価)の原理の行きすぎを改める。市場をよしとする新自由主義(neoliberalism)に歯止めをかけて行く。

 日本の政治ではよい形の蕩尽が弱い。蓄積をとりつづけようとする。悪い形での蕩尽をうながそうとする。そういうところが大きい。それは日本の政治では新自由主義がとられていることがもとにある。

 新自由主義によるのが日本の政治であり、そこから不利益分配の政治がおきている。ウイルスの感染が広がっている中で、その影で不利益分配の闘争がおきているのだ。だれしもがいやがるものである不利益をだれに押しつけてなすりつけようとするのかの闘争だ。国民にがまんを強いる。国民に十分な生活の補償をしようとしない。ただ国民に耐えさせようとする。国家の公のために、個人の私を従わせる。個人の私はあくまでも二の次であり、国家の公が優先されてしまう。

 明治の時代から日本の国では富国強兵をとってきた。これは国家の公をいちばんに優先させるあり方だ。個人の私は二の次になり、あくまでも天皇の下に国民が位置づけられて、臣民(しんみん)としてあつかわれる。天皇の赤子とされる。それがいまにも引きつづいている。そこから日本の政治では蓄積を保ちつづけようとする力が強い。よい形の蕩尽をなそうとする力が弱い。悪い形の蕩尽をうながす力が強い。戦争を引きおこさないように防ごうとする動機づけが弱い。

 明治の時代からいまにおいてもつづいているものだといえる富国強兵のあり方では、ほんとうの意味での豊かさを国民は得られづらい。ほんとうの意味での豊かさとは、よい形の蕩尽からもたらされるものである。日本の政治では、蓄積のあり方を保とうとするのが強く、悪い形の蕩尽をうながすところが大きい。よい形の蕩尽をなそうとするのが行なわれづらい。それがあるために、国民がほんとうの豊かさを得られづらいのである。

 人それぞれによっていろいろなとらえ方ができるから、一方的に決めつけてしまってはいけないが、ほんとうの豊かさとは、その一つの見かたとしては、よい形の蕩尽にある。それは贈与の原理によるものである。市場をよしとする新自由主義によるものではない。蓄積にあるのではない。

 日本の国が置かれている状況としては、よい形の蕩尽をなすのがとても難しくなっている。それが難しくなっているのは、国の財政がぼう大な赤字を抱えていて、首が回らなくなっているためだ。それがあることもあり、蓄積を保ちつづけようとしたり、悪い形の蕩尽をうながしたりする方向性が強い。よい形の蕩尽をなそうとすることが弱くなっている。ほんとうの豊かさを国民が得ることができづらくなっていて、そこから遠ざかっていっている。

 人それぞれによって見かたがちがうのがあるから、一方的にこれがよいとは言えないのはあるが、その中において、国民がほんとうの豊かさを得られるようにして行く。よい形の蕩尽をなして行く。そのためにはこれまでの明治の時代からつづく日本の国のあり方を根本(radical)から批判としてとらえて行くことがいりそうだ。科学のゆとりをもって、できるだけ根本から批判として日本の国のあり方をとらえて行く。それを行なわずに、表面だけですませてしまうのだと市場をよしとする新自由主義や国家の公が肥大化して行くのに歯止めがかからなくなることが危ぶまれる。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『現代社会用語集』入江公康(いりえきみやす)