分配を重んじるべきか、成長を重んじるべきか―成長すればすべてがうまく行くのか

 分配なくして成長なし。野党である立憲民主党枝野幸男代表は、国会においてそう言った。それにたいして、与党である自由民主党岸田文雄首相はこう切り返している。成長なくして分配であり、成長のほうが大事だ。それとともに、分配も成長もどちらも大事だ。

 自民党の岸田首相がいうように、分配と成長では、どちらかといえば成長のほうが大事なのだろうか。

 岸田首相がいうように成長なくして分配なしなのであれば、こういったことが言えることになる。成長がないならば分配もないことになり、成長も分配もどちらもないといったことがある。分配があれば成長があることになり、分配ができるようなのであれば成長していることをしめす。

 たとえ成長を重んじるのだとしても、富のこぼれ落ち(trickle down)はおきづらい。そのことが明らかになったのが、安倍晋三元首相によるアベノミクスの負の教訓の一つだろう。成長したとしても、格差が改まるとはかぎらず、階層(class)の格差が温存されたままになる。

 学者のトマ・ピケティ氏がいうように、資本主義では格差がどんどんおきつづけていってしまう。経済成長率である g よりも資本収益率である r がたえず上回り、不等式となる。資本主義がつづけられるかぎりは、格差が改まる見こみはかなり低く、格差が開きつづけて行く。格差社会が改まらない。

 歴史においてどういったことが平等をもたらしたのかでは、四つのものがあるという。戦争と革命と国の崩壊と疫病だ。これは『暴力と不平等の人類史』ウォルター・シャイデル著による。これらの四つのことでもおきないかぎりは、なかなか社会の中の不平等は改まることがない。

 成長することができさえすれば、分配ができるようになり、すべてのことがうまく行く。岸田首相はそういったあり方をとっているのだろうが、それはきびしく見ればいささか甘い幻想だと言えそうだ。いま日本が置かれているきびしい現実にもっと向き合うべきだろう。そのきびしい現実とは、もはや日本は利益分配の政治ができなくなっていて、不利益分配の政治をすることが避けられなくなっている点だ。

 きびしい現実に目を向けるのだとすれば、どのような不利益をだれが引き受けなければならないのかがある。問題を先送りにしつづければ、未来や将来の国民にそのしわ寄せが行く。不利益を弱者などに押しつければ、社会の中が分断して、社会が悪くなって行く。社会の中に不安がまん延化して行く。格差社会が深まって行けば、人々の不満が外に向かい、外に敵が作られて、戦争に向かう危なさがおきる。

 日本の国は甘い願望の神話(myth)にたよりやすい。つごうよく神風が吹いてくれるにちがいないといった願望思考(wishful thinking)だ。経済が成長することを重んじるのは、甘いところに逃げこむものであり、甘さが苦さに転じることがおきかねない。薬と毒が転化すること(pharmakon)がおきる。甘さが甘さだけであり、薬が薬だけなのであればそれに越したことはないが、それが反対のものに転化することがあるから、そこに気をつけたい。

 きびしい現実である不利益分配の政治に向かい合ってそれに着手する。不利益分配の政治である苦さや毒のところを、いまの日本は避けては通れなくなっていそうだ。かつてといまを比べてみると、かつては甘さや薬がそのまま甘さや薬であったところがあり、利益分配の政治がなりたった。戦後の東西の冷戦のなかでは、日本は国としてもっともその恩恵を受けたとされる。外からの恩恵を受けたことから、高度の経済の成長が達せられた。

 東西の冷戦が崩れたのがあり、かつてとはちがっていまは利益分配の政治ができなくなっていて、いろいろなひずみやゆがみが日本の社会の中に大きくたまっている。問題を先送りすることができづらくなっているのだと見なしたい。

 参照文献 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『社会階層 豊かさの中の不平等』原純輔(じゅんすけ) 盛山(せいやま)和夫