分配の財源をどうするのか―改革と闘争

 分配をして行く。国民に利益を分配して行くことはいわれるが、そのもとになる財源については言われない。分配の財源をどうするのかがとり落とされている。日本維新の会はそうしたことをポスターで言っていた。

 維新の会が、分配の財源について目を向けるべきだとしていることをどのように見なすことができるだろうか。財源をどうするのかについては改革をして行くことが欠かせないのだと維新の会はしているが、それはふさわしいことなのだろうか。

 分配を言うだけではなくて、その財源をどうするのかもとり上げることがいるとしているのは、よい着眼の視点だといえる。この着眼の視点は評価することができる。ことわざで言われるように、無いそでは振れない。先だつものやもとでがなければどうしようもない。

 財源をつくるためには改革が欠かせないとしているのが維新の会だが、そこで言われる改革はうさんくささがある。それを言い換えられるとすると、新自由主義(neoliberalism)をおし進めることを意味していそうだ。改革が言われているさいには、それがどういうことを意味しているのかに警戒することがいる。

 分配をなすためには、改革がいるのであるよりは、闘争がいると言えそうだ。どこかが得をすれば、別のどこかが損をする。どこかが勝てば、別のどこかが負ける。そのような形で分配の財源をつくるしかない。闘争を行ない、得をする人と損をする人をつくったり、勝つ人と負ける人をつくる。みんなが得をして、みんなが勝つような形は難しい。

 みんなが損をしたりみんなが負けたりすることもいる。これは痛み分けであり、不利益をみんなで分け合うことだ。見かたによっては、どこかが得をしてどこかが損をしたり、どこかが勝ってどこかが負けるのよりは、それぞれで痛み分けをして不利益を分け合うのは公平なあり方だと言えないではない。

 たとえ分配の財源をどうするのかに目を向けたとしても、それを改革によってつくるのだとしてしまっては、けっきょくのところ財源をどうするのかについてまともにとり上げていることにはなっていそうにない。そこにまともに目を向けるのであれば、うさんくささがつきまとうものである改革を言うのではなくて、闘争を言うべきである。

 いまの日本では生ぐささがある闘争を避けては通れそうにない。じっさいにそれが裏では行なわれているし、それを避けようとしたところで避け切れなくなっている。不利益の押しつけ合いの闘争がおきていて、だれに不利益を押しつけるのかの対立がおきている。弱いところに不利益が押しつけられる。一部のところだけがたくさん不利益を引き受けるのではなくて、痛み分けをしてできるだけ公平に不利益を分け合うことができるかが大事なことだろう。

 参照文献 『「不利益分配」社会 個人と政治の新しい関係』高瀬淳一