政権の中に共産党が入るのは悪いことなのか―共産党を排除するのは正しいことなのか

 共産党が入った政権でよいのか。そう言われているのがある。もしも野党が政権をとったら、その中に共産党が入ることになり、それはよいことではないと言われている。

 与党である自由民主党の政治家などが言っているように、日本共産党が入った政権ができたらよくないのだろうか。共産党が入っていない政権のほうがよいのだろうか。

 その政権の中に共産党が入っているかどうかによって、その政権のよし悪しが決まるのだとは言えそうにない。たとえ政権の中に共産党が入っていても、それだからといってとんでもなく悪くなるとはかぎらない。政権の中に共産党が入っていないとしても、とんでもなく悪い政権はありえるだろう。

 党の中にはいろいろな政治家がいるのだから、その一人ひとりの政治家がどうなのかを見ることがいる。党の中ですべての政治家がみんな優秀なのだとは言えないのとともに、みんなどうしようもないほどに駄目な政治家ばかりとも言い切れそうにない。

 一〇〇点の政党もなければ〇点の政党もない。だいたいは五〇点くらいの政党ばかりだと言えそうだ。その政党が政権をとったら、一〇〇点の政治ができるとは言えないし、その逆に〇点の政治をなすとも言えそうにない。

 政治において〇点と言えるのは、政権が一つもなりたっていないのが当てはまる。国の中で内乱がおきつづけている。内乱がおさまって一つの政権がなりたてば、〇点から少しは点数が加点される。たとえ独裁主義の政権であったとしても、内乱がおきつづけるよりは少しはましだから、何(十)点かはうまくすれば得点をとれる。

 いちばん得点が高いのは、独裁主義によるのから立憲主義自由民主主義(liberal democracy)のあり方になることだ。立憲主義自由民主主義のあり方になっているのであれば、一〇〇点の満点にはとどかないとしてもあるていど高い点数がとれている。

 たとえどのような政党に属しているのだとしても、日本の国の中に一〇〇点の政治家はいそうにない。よくてもせいぜい五〇点くらいが限界だろう。五〇点くらいがせいぜいだとするのはちょっときびしすぎるけど、日本の教育は飛びぬけてすぐれた人を出すようにはあまりなっていないし、日本の社会の中はことわざで言う出るくいは打たれるようになっているところがある。

 日本では突出してすぐれた政治家が出て来て上の地位につくとはあまり考えづらい。日本の政治のしくみは風通しが悪くて、世襲の政治家が多いのがあり、すぐれた指導性をもつ政治家がどんどん生み出されるようにはなっていない。もっと風通しをよくして、政治の世界の中にすぐれた人がどんどん気軽に入って行けるようにしたら、少しはあり方が改まるかもしれない。

 日本の国の長である首相の地位についたとしたら、その政治家は何らかの形で嘘をつかざるをえなくなるのがあるから、得点は減点されることになる。日本の国の首相は、現実の政治の運営において、何らかの嘘をつかざるをえないのがあり、すべてほんとうのことを言ったとしたら日本の国が回りそうにない。日本の国は多かれ少なかれ(よかれ悪しかれ)嘘で回っているところが小さくない。虚と実のあいだの境い目がはっきりとせず、あいまいになりがちだ。

 ひとつの政党(political party)はその国の全体を代表しているのではなくてあくまでも部分(part)を代表しているのにすぎない。自民党であったとしても日本の国の部分しか代表していないし、共産党であったとしても同じことだ。あたかも自民党が日本の国の全体を代表しているかのごとくによそおうのはまちがいだ。部分しか代表していない点では、どの政党もみな共通点をもつ。

 どういった政党が政権の中に入るのかは、何々である(is)の事実であるが、そこから自動で何々であるべき(ought)の価値を導けるとはいえそうにない。政権の中に共産党が入るのだとしても、それは何々であるの事実ではあるが、それがよくないことなのだとの負の価値を導けるのだとは言いがたい。

 哲学の新カント学派の方法二元論によって見てみれば、事実と価値は分けるようにしたい。価値についてを見るのであれば、その政党の正の価値のところを見ることもできるし負の価値のところを見ることもなりたつ。正の価値だけをもつ政党はないし、負の価値だけをもつ政党もまたない。正と負のどちらの価値もあわせ持つ。それが政党だと言えるから、事実から自動で価値を導かないようにして、価値については正から負までのいろいろな複数の視点をとるようにして行きたい。

 参照文献 『小学校社会科の教科書で、政治の基礎知識をいっきに身につける』佐藤優 井戸まさえ 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『天才児のための論理思考入門』三浦俊彦