公の文書と、その客観性―客観主義や本質主義と、構築主義

 ねつ造だ。あやしいものだ。公の文書についてそう言っているのが、元総務相だ。

 省庁から出てきた公の文書に、負の価値づけをしているのが自民党の元総務相だけど、その言いぶんは通るのだろうか。

 どういう言いぶんなら通るのかといえば、総務省から出てきたものが、公の文書であり、行政の文書であるのだとするのであれば、それは通ることになる。

 どういうことなら実証できるのかといえば、それが公の文書や、行政の文書だと言うのなら、それはなりたつ。

 何々であるとか何々がある(is)のと、何々であるべき(ought)とを分けてみたい。

 実証の点で見てみると、何々であるとか何々があると言えるのにとどまる。そこまでは客観に言えるけど、何々であるべきの価値については、いろいろに言えることになる。正から負までを色々に言える。

 文書ではなくて、政治家でいえば、元総務相は政治家であるとは言えるけど、わるい政治家であるのかどうかは、いちがいには言い切れそうにない。客観に実証ができるのは、元総務相が政治家である点にとどまる。

 元総務相がわるい政治家だとするのは、左派ならそうなるけど、右派なら逆になる。右派であれば、元総務相はすごいよい政治家だとなる。ネット右翼の人たちであれば、正の価値づけが行なわれる。

 政党でいえば、与党である自由民主党は、政党であることは事実だ。政党であることは客観のものとして実証できるけど、よい政党なのかわるい政党なのかは、いろいろに言えることになる。左派であれば、わるい政党だと見なすことになるし、右派であればその逆によい政党だと見なす。ネット右翼の人たちであれば、自民党(とその補完の勢力となる野党)だけがゆいいつのよい政党だとなる。

 何々であるべきの価値については、最高または最低はなりたたない。最高または最低がなりたつのだとするのは、一神教のあり方だ。神の死があり、一神教はなりたたなくなり、価値の多神教になっている。最高または最低はなりたたない。

 最高または最低がなりたつのだとしてしまっているのが元総務相だ。神の死をくみ入れていない。省庁から出てきた公の文書について、最低なのだとしているけど、それは通るものではない。

 最低なのだとしているのが元総務相だけど、それはなりたたず、それなりに価値があるものだとするのがおきてくる。それなり以上に価値がある公の文書なのだとする見かたが生じてくる。

 それなりに価値があるのだとしても、それを最高なのだとするのなら、それもまた没落してしまう。最高なのだとするのは、それはそれでやりすぎになり、没落してしまい、最高ではなくなることになる。とくに価値を見いださずに、それがいったい何なんだとか、だから何なんだ(so what?)、といった人もまたいるものだろう。それについてとくに関心や興味がない人もいる。

 文書を、政治家や政党なんかに置き換えてみれば、何々であるべきの価値は、最高または最低だとは言い切りづらい。その政治家や政党を、最高だと言ってしまうと、没落する。最低だと言ってしまうと、興隆(こうりゅう)や勃興(ぼっこう)する。上や下にいろいろと動く。

 文書だけではなくて、政治家や政党についても、何々であるべきの価値については、あるていど自由にとらえられる。こういう価値なんだとは、上から強制しづらい。事実であることについては、それ(事実であること)を認めるのでないと、問題が片づかない。価値については、人それぞれの自由があるから、何々であるの事実のようには、客観のものとして実証できないことがらだ。

 元総務相は、事実であることについてはそれを認めるようにしないと、問題が片づかない。問題を片づけるためには、事実についてはそれを認めるようにすることが大原則だ。省庁から出てきたものが、公の文書や行政の文書に当たるのなら、その事実は認めるようにしないとならない。事実を認めたうえで、価値については、最高または最低とはできないから、人それぞれで正から負まで色々に見なすことがなりたつ。脱構築(deconstruction)することができる。

 参照文献 『考える技術』大前研一現代思想の断層 「神なき時代」の模索』徳永恂(まこと) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦構築主義とは何か』上野千鶴子編 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明