ミャンマーの軍事政権による人々への排除の暴力と、正義と自由と平和の三つの価値の消極性

 ミャンマーでは軍事政権が非民主的なかたちで政治の権力をうばった。政治の権力の正当性を守るために、軍事政権に反対する声をあげる人々への排除の暴力が振るわれつづけている。

 軍事政権に反対する民主主義のデモをしている人々に排除の暴力がふるわれていて、死者が出ている。デモに参加していない人にも排除の暴力がふるわれているという。

 ミャンマーでつづいている軍事政権の人々にたいする排除の暴力についてをどのように見なすことができるだろうか。そのことについてを、学者のフリードリッヒ・ハイエク氏がいった自由と正義と平和の三つの価値の消極性によって見てみたい。

 政治家であるアウン・サン・スー・チー氏らが政治の活動の中で悪いことをなした。軍事政権はそう言っていて、アウン・サン・スー・チー氏らを裁判にかけている。

 アウン・サン・スー・チー氏らが不正をなした疑いが軍事政権によってかけられているいっぽうで、軍事政権はデモをしている人々に排除の暴力をふるいつづけているために、軍事政権もまた不正をなしている。

 民主主義において人々がデモを行なうのは人々がもつ権利のひとつだから、それを行なうことが否定されるのはのぞましいことではない。デモを行なう人々の権利をうばい、人々にたいして排除の暴力をふるうのは、許されることではない。政治の権力がやってよいことではないから、軍事政権は不正をしていることになる。

 どのようなことが正義に当たるのかは、定義づけをすることがむずかしい。正義のほかに自由や平和についてもそれと同じことが言える。ハイエク氏はそう言っているのがある。それらはあくまでも消極の定義づけしかできづらい。正義は不正がないことであり、自由は強制がないことであり、平和は戦争がないことをさす。そう言うことが言えるのにとどまり、それ以上に踏みこんだことは言いづらい。

 人々の自由をうばい、国家の公が上からひとつの見なし方を押しつける。これは自由の否定である。近代の自由主義(liberalism)の中性国家の原則からすると、国家の公は個人の私の自由をできるだけ重んじるのがよい。国家の公は個人の私に上から一つの価値を押しつけないようにして、個人の私の心の中にまで入りこまないようにする。

 デモをしている人々に排除の暴力をふるうのは、人々から権利をうばうことであり、基本の人権(fundamental human rights)の侵害だ。政治の権力がやってよいことではないから、そのやってはいけないことをしていることは、軍事政権が不正をしていることをあらわす。外との戦争とまでは行かなくとも、国の中でのぶつかり合いである内乱のようになってしまう。

 ひとつの国は完全にひとつにまとまっているのではなくて、ひとつの国としてリヴァイアサンがなりたつ裏では、部分の内乱の勢力であるビヒモスがたえずある。ひとつの国としてリヴァイアサンがなりたつのだとしても、内乱の勢力であるビヒモスが消えてなくなるのではなくて、たえずそれがある。ひとつのまとまりとしての国は共同幻想にすぎず、内部に矛盾を抱えこまざるをえない。人間どうしであれば、闘争がおきることは避けられず、それは自然史における原事実である。対立がなければ政治はない。

 自由主義によってできるだけ人々の自由を重んじて行く。一つの権力に強く求心化するのではなくて、権力を分散させるようにして行く。抑制と均衡(checks and balances)をはたらかせるようにする。人々の人権を守るようにして、平和に生存することができるようにして行く。その中で政治において不正が行なわれた疑いがあるのであれば、科学のゆとりを持ちながら、手つづきとしてそれを明らかにするように努めて行く。とちゅうの手つづきのところにしっかりと力を入れるようにする。

 科学のゆとりが欠けていて、とちゅうの手つづきをすっ飛ばしてしまい、善と悪の二分法のかたちを政治においてとってしまうと、危ないことがおきやすい。もともと正義や自由や平和はあくまでも消極にしか言えないものだから、できるだけ自由主義によりながら、少しずつものごとを進めていって明らかにして行くしかない。

 消極にしか言えないものを、積極に言ってしまい、絶対化したかたちで純粋な正義などをとってしまうと、抑制がきかなくなり、限度を踏みこえてしまう。その危なさがつきまとう。たいていの政治の権力は多かれ少なかれ汚れているものであり、完全に純粋にきれいなものはまずないものだから、政治において絶対化した純粋な正義はなりたちづらい。政治の権力はさん奪される性格をもつ。

 政治においてもっとも大切なことのひとつは、いかに抑制をきかせられるかにあるから、政治の権力が抑制を失って失敗することがないようにして行きたい。歴史において政治の権力が失敗したことは数多くあり、それをもとにしてつくられているのが立憲主義(constitutionalism)だとされる。歴史における数々の失敗をくみ入れてつくられている立憲主義をないがしろにすれば独裁主義になりやすい。独裁主義すらなりたたなければ内戦がおきる。その中でいかに理想である立憲主義によることができるかが試されることになる。

 参照文献 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『リヴァイアサン長尾龍一 『公私 一語の辞典』溝口雄三 『ええ、政治ですが、それが何か? 自分のアタマで考える政治学入門』岡田憲治(けんじ) 『ポリティカル・サイエンス事始め』伊藤光利編 『抗争する人間(ホモ・ポレミクス)』今村仁司 『正しさとは何か』高田明典(あきのり) 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『政治の見方』岩崎正洋 西岡晋(すすむ) 山本達也