記憶にありませんと政治家や役人が国会で言ってそれでことをすませてしまってよいのか―政治家や役人の記憶の力

 記憶にありませんと言え。与党である自由民主党総務相は、役人にたいして国会でそう指示したのだという。

 総務相が言うには、役人にたいして、記憶にありませんと言えと国会で指示したことは、記憶にないのだという。総務相が言うところによると、無意識に自分の口からついて出たのだということだ。うかつに口走ったといったことだろうか。

 国会で政治家や役人が記憶にありませんと受け答えすることはふさわしいことなのだろうか。国会で追及を受けているときに、政治家や役人が記憶にありませんと受けこたえをするのは、許されてよいことなのだろうか。

 政治家と役人の記憶の力を比較することができるとすると、政治家よりも役人のほうが記憶の力は確かかもしれない。上級の役人は学歴が高いから、学校の勉強の成績はよいはずであり、ものごとを暗記する力はそれなり以上にあるはずである。

 事前と事後の二つに分けて見てみられるとすると、そもそもの話として、政治家や役人が自分の記憶の力が低いことを事前に自分でわかっていないとならない。それを自分でわかっておいて、何らかの埋め合わせのための工夫をすることがいる。政治家や役人は自分の記憶の力が低いことをみなに知らせるようにして、いざとなったさいに記憶していないおそれがきわめて高いことを知らしめておかないとならない。

 記憶の力が低い政治家や役人にたいして、物理として行動のあとを記録する装置のようなものを身につけさせて、自動で行動が記録されるようにするのはどうだろう。それはやりすぎかもしれないが、もしもそうした自動で行動のあとが記録される装置を記憶の力が低い政治家や役人が身につけていれば、政治における情報の開示や透明性を高めるはたらきをのぞめる。

 いざとなったさいに追及を受ける政治家や役人が言い逃れをできてしまう。記憶にありませんと言って逃げることができてしまう。それができてしまうと政治における情報の開示や透明性がさまたげられる。国民に政治の情報を開示するようにして透明性があるのでないと、有権者である国民の自己実現や自己統治ができなくなる。

 追及を受けていることについて、そのことの記憶がすっぽりと抜け落ちてしまう。追及を受けていることについての記憶だけがすっぽりと抜け落ちる。すっぽりと記憶が抜け落ちるさいに、どこからどこまでの記憶ができていないのかがある。まるで覚えていないといったことだと、記憶の力がそうとうにたよりない。たとえうっすらとではあったとしても、何らかの断片くらいは覚えているのでも不思議ではない。

 記憶の力がたよりなくて低いのであれば、そのことを政治家や役人は自分で知っていないとならないし、自分の記憶の力を信用することはおかしい。自分の記憶の力が低いのにもかかわらず、それを信用するのであれば、いざとなったさいにそれに裏切られることになる。自分で自分に裏切られる。

 たとえば、使っているパソコンのハードディスクが壊れやすいのであれば、そのハードディスクを信用するべきではないだろう。それまでにハードディスクに溜めておいた情報の蓄積が何らかのさいにふいにぜんぶだめになる見こみが高い。それと同じように、記憶の力が低い政治家や役人は、自分の記憶の力を信用するべきではなくて、それを疑っておくことがいる。

 いざとなったらパソコンのハードディスクを物理の道具であるドリルで破壊することが自民党の政治家によってかつて行なわれた。それとはややちがうが、記憶の力が低いのであれば、それは壊れやすいハードディスクのようなものだから、自分の記憶の力を信用するべきではなく、それを埋め合わせるための何らかの補助の手段をとるようにして、自己管理を行なう。それを行なわないのであれば、記憶するべきことを記憶しないおそれが高くなり、いざとなったさいに自分の記憶の力に裏切られることになる。

 自分の記憶の力の低さを埋め合わせるために補助の手段をとって自己管理をしておくことは、政治家や役人としてなすべきことにあたるものだろう。それをしていないのは怠慢があることになり、不注意があったことになり、よりつっこんで言えば悪意があるおそれがある。誠実さがないことになるから、不信をまねかざるをえず、日本の政治の全体に害を与えることになる。退廃をまねく。きびしく言えるとすればそう言えるのがあるから、日本の政治の全体に与える負の影響は小さくはないかもしれない。

 参照文献 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや) 『安心社会から信頼社会へ 日本型システムの行方』山岸俊男