政治責任とはいったい何なのだろうか―表象としての国の政治家

 政治責任がある。それについての定義づけは定まっていない。記者会見の中で、与党である自由民主党菅義偉首相はそう言っていた。

 菅首相政治責任の定義づけはないといったことを言っていたが、このことについてをどのように見なすことができるだろうか。

 たしかに、菅首相がいうように、政治責任にはいろいろな見なし方ができるものかもしれない。人それぞれによっていろいろに見なせるところがある。

 どのような定義づけがふさわしいのかでは、その質と量(集合)を見てみられる。質をぼんやりとしていてばく然としたものにしすぎると修辞(rhetoric)におちいってしまう。修辞学でいわれる、多義またはあいまいさによる虚偽におちいることになる。あるていど質をしぼるようにして、定義づけを明確化するようにしたい。たとえば、それをどのようなほかの言い方に言い換えられるのかや、反対の意味に当たるものは何かといったことを見て行ける。

 責任をとるのよりも、責任をとらない無責任なあり方についてを見ていったほうがわかりやすいのがあるかもしれない。責任をとらないことでは、日本の政治では与党の政治家が責任をとらないことが少なくない。

 戦前や戦時中では、天皇は戦争責任をとることがなかった。戦争を引きおこすことによって、日本の国の内と外にいちじるしい害や損をもたらしたのにもかかわらず、そのときの最高の責任者だった天皇は責任を引き受けることがなかった。天皇がさいごまで守られつづけたのは、天皇つまり国体とされていたからであり、国民の命などはどうでもよかったからなのにほかならない。

 国の政治家とはいったい何だろうか。政治家は国民の表象(representation)にすぎないから、国民そのもの(presentation)とはちがう。国民とはずれているものが国の政治家だから、表象である政治家は責任を引き受けないようになる。国民にたいして嘘をつく。知の誠実さがない。なにかよくないことが政治でおきたとしたら、それを責任をもって権力をもつ政治家が引き受けるのではなくて、その責任を国民になすりつける。権力をもつ政治家が悪いのではなくて国民が悪いのだといったことにしてしまう。ひらき直る。いなおる。

 修辞学の議論の型(topica、topos)でいわれる因果関係からの議論を持ち出せるとすると、政治においてよくないことがおきたさいに、そのことのもとである原因を権力をもつ政治家が自分で引き受けるようにすることが、政治において責任を引き受けることだろう。よくないことは自分が引き受けて、よいことは(自分の力ではなくて)他のおかげだとするのが理想論としてはのぞましい。

 何かよいことがあったさいにそのことのもとである原因を権力をもつ政治家が自分に当てはめるのは、えてして手がらのよこどりだ。ほんとうは自分の力ではないのにもかかわらず、自分の力によって成果が出たのだと見せかける。よいことがあったさいにその原因を自分に当てはめて手がらをよこどりして、悪いことがあったさいにはその原因を国民になすりつける。ひらき直っていなおる。これが政治において政治の権力者が責任を引き受けずに無責任であることだろう。

 言葉によるカタリとお金によるのが政治だとすると、さしあたってはお金のことは置いておけるとして、あとのひとつである言葉によって政治は営まれると言えるだろう。それからすると、言葉にたいして責任をもつことが、政治の責任を引き受けることになるかもしれない。黒いものを白いものだとは言わない。矛盾した言葉の使い方を言わない。そうした点がいちじるしく欠けているのが、与党である自民党には目だつ。そこをぜひ改めてもらいたい。

 言葉とお金のうちで、言葉による論争を行なう。それが政治なのだとすると、与党の政治家は討議の倫理(diskurs ethik)を持たなければならない。この倫理がいちじるしく欠けてしまっていて、支持率などの数字だけを追いかける。数字さえよければそれでよいのだとする。そこに見うけられるのは理性の道具化であり、理性の退廃だ。討議の倫理がいちじるしく欠けてしまっていて、理性が道具化しているのが自民党には目だつから、そこをぜひ改めるようにしてもらいたい。

 参照文献 『論理病をなおす! 処方箋としての詭弁』香西秀信現代思想を読む事典』今村仁司編 『政治家を疑え』高瀬淳一 『現代思想キイ・ワード辞典』鷲田小彌太(わしだこやた)編 『新版 ダメな議論』飯田泰之(いいだやすゆき)