ミャンマーの軍事政権にいることと、欠けていること―反証主義の必要性

 ミャンマーでは軍事政権にたいする民主主義のデモがつづいている。その中で民主主義のデモの参加者の中に多くの死者が出ているという。

 民主主義によって行なわれた国の選挙で不正があったとしているのがミャンマーの軍事政権が言っていることだ。それで軍事政権は自分たちの行動を正当化しようとしている。このことについてをどのように見なすことができるだろうか。それについてを哲学者のカール・ポパー氏がいった反証主義によって見てみたい。

 ポパー氏による反証主義では、あるものごとについてどのような見なし方をとるのだとしても、その見なし方にたいしてきびしい批判が投げかけられなければならない。他からの批判に開かれていなければならない。閉じないようにすることがいる。

 ミャンマーの軍事政権は、自分たちの見なし方がまちがっているかもしれないのだから、他からの批判に開かれていることがいる。理想論としてはそれが言えるが、現実論としては閉じてしまっている。閉じてしまっていることによって、民主主義のデモの参加者にたいして排除の暴力をふるっている。それでデモの参加者の中に多くの死者がおきているのだ。

 何をすることがいることなのかといえば、ミャンマーの軍事政権は、自分たちの見なし方を開かれたあり方にすることだろう。自分たちの見なし方をポパー図式の中に投げこむ。ポパー図式とは、ある問題があって、それにたいする見なし方があり、その見なし方への批判があり、新しい問題となるものだ。

 何をすることが足りていないのかといえば、ミャンマーの軍事政権が自分たちの見なし方をポパー図式の中に投げこんでいない。そのことによって閉じてしまっていて、見なし方が教義(dogma、assumption)のようになってしまっている。教義になってしまっていると、他からの批判を受けつけないようになってしまう。完ぺきな合理性をもつ見なし方だといったようなまちがった信念がとられてしまう。完ぺきな合理性をもつものだとしたて上げたり基礎づけたりはできづらい。人間には合理性の限界があり、限定された合理性しか持てない。

 政治においてはそれぞれの人がいろいろな見なし方をもつことがいり、それぞれの人による自由な選択が許されるべきだろう。いろいろな選択肢があるはずであり、それらの選択肢が MECE によってすべてもれなくだぶりなくあげられることがのぞましい。MECE では mutually は相互に、exclusive は重複せず、collectively は全体として、exhaustive は漏れがないを意味する。

 いろいろな選択肢があって、それらがもれなくだぶりなくくまなくあげられるようにして行く。それでそれらの選択肢を人々が自由に選択できるようにして、それを外に表明できるようにする。なにを思うのかの思想の自由(freedom of thought)と表現の自由(free speech、free expression)だ。これらがあることが政治においては重要になるから、それらがすべての人に保障されるようであればよい。自由民主主義(liberal democracy)によるようにして、独裁にはならないようにして多元性による抑制と均衡(checks and balances)がはたらくようにしたい。一元ではなくて多元による支配(polyarchy)だ。国の全体がまちがった方向に向かってつっ走っていってしまうのを防ぐためである。

 参照文献 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『正しく考えるために』岩崎武雄 『ええ、政治ですが、それが何か? 自分のアタマで考える政治学入門』岡田憲治(けんじ) 『新版 主権者はきみだ 憲法のわかる五〇話』森英樹 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫