力づくで権力をにぎることは許されることなのか―民主主義の欠如や否定

 ミャンマーでは軍事政権が権力をにぎっている。それと同じように、アメリカでも力を使って権力をにぎることをいとわない。アメリカのドナルド・トランプ前大統領の支持者の中にはそう見なしている人がいるようだ。

 力を使って権力をにぎることはその必要性があるのであれば許容されるものなのだろうか。力を使ってでもトランプ前大統領がまた権力をにぎることはあってよいことなのだろうか。

 力によって権力をにぎることはテロだと見なすことができる。テロをよしとすることになる。テロの定義づけはあいまいなところがあるから、一義ではなくて多義性があるのはたしかだ。多義性はあるものの、いっぽうでテロを批判しておきながら他方でテロをよしとする矛盾におちいりかねない。いっぽうで(ミャンマーの軍事政権や中国による)力による現状の変更を批判しておきながら、他方で力による現状の変更をよしとしかねない。

 ミャンマーで軍事政権が力によって権力をにぎったことは許容されることとは言えそうにない。力づくで権力をにぎることは許容されることではないから、アメリカでもそれがおきることはよいことではないだろう。民主主義の点からはそういえる。

 力づくで権力をにぎったのがミャンマーであり、それは反面教師にはなったとしても、それを見習おうとするのはよいことではない。トランプ前大統領の支持者の中には、反面教師に当たるミャンマーの軍事政権を見習おうとしてしまっている。

 手段として力を用いて権力をにぎるのはよいことではない。手つづきとして力によって権力をにぎるのはよいことではないから、できるだけよい手段を用いるようにすることが大切だ。よい手段とは、民主主義の手つづきをふむことだろう。

 民主主義による選挙で不正があり、民主主義が踏みにじられてしまった。だから民主主義によらないでもよい。それだと民主主義が否定されたから、民主主義を否定しようといったことになる。

 選挙で不正があったとすれば民主主義が否定されたことになるかもしれないが、そこの確からしさは定かではない。民主主義が否定されたのかどうかは確かとは言えないので、民主主義が否定されたこと(選挙で不正があったこと)をもってして民主主義を否定すること(力づくで権力をにぎること)が許容されるとは言えそうにない。 

 民主主義を否定することがよくないのだとすれば、それをしないようにすることがいるのであって、それをしてしまってはもともこもない。悪いことが行なわれたのであれば、同じように悪いことをすることはやむをえないとするのではないようにしたい。

 ミャンマーの軍事政権を見習うのではなくて、その逆に反面教師にして、いかに民主主義によれるようにするのかを探って行きたい。民主主義によれていないからミャンマーの軍事政権が権力をにぎってしまった。原因はそこにあるのだといえるとすると、民主主義によるようにすることがいるのであって、民主主義に反しているミャンマーの軍事政権のようにすることがいるのではない。

 民主主義によるようにすることがいるのがミャンマーの軍事政権だが、それと同じようにアメリカでも民主主義が壊れてしまっていることから民主主義によるようにすることがいる。民主主義によって平等に人々をくまなく包摂するようにして、開かれた中で自由に競争ができるようにして行く。政治でしっかりと説明責任(accountability)が果たされるようにして行く。

 何がいることなのかといえば、ミャンマーの軍事政権を見習って力づくで権力をにぎるようにすることなのではない。それだと民主主義に反してしまう。民主主義に反しているのがあるなかで、いかにそれを改められるのかがある。アメリカでいることは、ミャンマーの軍事政権を見習うことではなくて、十分にできていないところがある民主主義をいかにより高められるかにある。そう見なしてみたい。

 日本の政治でもアメリカより以上に民主主義ができていないところがあるから、ミャンマーの軍事政権を見習うのではなくてその逆に反面教師にして、日本の政治でいかに民主主義を高められるのかが求められる。日本の政治ではやり直し(redo)の機会が十分に豊かにあるとはいえず、包摂性や競争性が十分にあるとは言いがたい。説明責任が果たされないことが多い。それらを改めて行くことがいるだろう。

 参照文献 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『原理主義と民主主義』根岸毅(たけし) 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『考える技術』大前研一