公の文書と、そのねつ造の言いぶん―文書が正しいのか、それとも政治家の言いぶんが正しいのか

 流出した公文書は、ねつ造だ。そう言っているのが、元総務相だ。

 総務省から出てきた行政の文書が、ねつ造だったと言っているのが自由民主党の元総務相だけど、それ(文書がねつ造であること)にはうたがいが投げかけられている。

 ねつ造を、言いかえてみたい。それを言いかえてみると、情報の意図性や作為性や政治性にあたる。

 もしも、その文書がねつ造なのだとすれば、その文書は、情報として、意図性や作為性や政治性が高いことになる。それらがものすごく高い。

 文書と音声の二つがあって、それらのうちで、音声をより重んじるのが、音声中心主義だ。音声のほうが、より信用できるのだとはいえそうにない。

 しかるべき文書なのが公文書だから、情報の意図性や作為性や政治性が少ない。ふつうはそうなっているものだ。公共性が高い。

 いくらでも口からでまかせを言えるのが音声だ。その場しのぎの言いのがれをいくらでも言えてしまうのが音声なのだから、情報の意図性や作為性や政治性が高いことが少なくない。

 ある具体の文脈(context)にしばられないのが公の文書だ。できるだけ具体の文脈にしばられないようにして作られるものである。

 具体の文脈にしばられづらいのが公の文書であり、ひらかれた客観のあり方だ。だれでも理解することができるような内容であるように努められている。理想としてはそうだろう。

 その場で口から言う音声だと、その場の具体の文脈にしばられやすい。文脈は、(一つには)話の流れの意味だから、その場での話の流れによっている。そこでの話の流れによって、ついつい口からある文句を言ってしまうことがある。

 あとに残されたこん跡なのが、公の文書だ。そのこん跡について、それをどのようにとらえるのかがある。あとに残されているこん跡を、どのようにとらえるのかがあり、それによって、(こん跡から)じっさいのありようを浮かび上がらせることができる。

 じっさいのありようの浮かび上がらせ方があって、その(こん跡からの)浮かび上がらせ方が、見解(view)だ。よい浮かび上がらせ方もあれば、そうではないものもある。よい見解もあれば、そうではない見解もある。

 たとえ元総務相が言っていることだからとはいっても、総務省から出てきた行政の文書がねつ造だとするのは、正しくない見解である見こみがある。見解をうたがうことができるのがあるから、その見解(元総務相による見解)が本当に正しいものであるのかどうかを問いかけることがなりたつ。

 正しくない見解であるのだとすれば、証拠(evidence)となる事実が足りていなかったり、飛躍があったり、矛盾していたりすることになる。

 公の文書ではなくて、(自分の口から言った)音声としてのものなのが、元総務相の見解だ。言葉の点で見てみると、文書であっても、音声であっても、言葉である点では共通点をもつ。

 音声による言葉では、うそをつけるのがあって、政治家はしばしばうそをつく。国民を代理する表象(representation)なのが政治家だから、うそをつくことが多い。

 うそをつくことが多いのが、表象である政治家だ。それがあるので、公の文書について、元総務相が言っていることは、うそである見こみがある。公の文書をねつ造だとしている元総務相の言っていることは、本当やまことではない見こみがあるので、そこをきびしく批判で見てみることがいる。

 うそが証明できる可能性をもつことがいる。反証の可能性だ。元総務相が言っていることは、反証の可能性をもっていないとならない。仮説を言ったのが元総務相だから、その仮説について、きびしい批判を投げかけて行く。批判をして、仮説がまちがっていることがわかったら、元総務相はうそを言っていたことになるだろう。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『情報政治学講義』高瀬淳一 『疑う力 ビジネスに生かす「IMV 分析」』西成活裕(にしなりかつひろ) 『「科学的思考」のレッスン 学校で教えてくれないサイエンス』戸田山和久 『公文書問題 日本の「闇」の核心』瀬畑源(せばたはじめ) 『新版 ダメな議論』飯田泰之(いいだやすゆき) 『文脈力こそが知性である』齋藤孝(たかし) 『公共性 思考のフロンティア』齋藤純一 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『九九.九%は仮説 思いこみで判断しないための考え方』竹内薫(かおる)