共産党と反共の、価値づけのし方のちがい―事実(is)と価値(ought)と、言説の分析

 反共はよくない。悪い。そうしているのが共産党だ。

 日本共産党がいっているように、反共は良くないものなのだろうか。悪いものなのだろうか。

 どういう価値づけになっているのかを見てみたい。それを見てみると、共産党においては、共産党が正の価値で、反共は負の価値だ。

 反共においてはどうなっているのかといえば、共産党は負の価値だ。反共は正の価値だ。

 言説(text)の分析をやってみると、言説の中でどういった価値づけがなされているのかをとり上げられる。

 まったく反対となる言説を持っているのが、共産党と反共だ。言説の中で、なにが正の価値でなにが負の価値なのかがあるけど、それがちょうど逆になっているのだ。

 たった一つだけの正しい言説があるのだとはいえそうにない。たった一つだけ正しい言説があるのだとしてしまうと、その言説を基礎づけることになってしまう。反基礎づけ主義によるのだとすれば、ある一つの言説だけを、正しいものだとして基礎づけたりしたて上げたりできづらい。

 ぜったいに正しい言説だとは言い切れないのが、共産党による言説だろう。ゆいいつにしてぜったいに正しい言説を共産党が言っているのだとは見なしづらい。

 日本で主になっているのは何かといえば、共産党による言説だとはいえそうにない。反共の言説が、日本で主になっているのがある。反共のあり方は、日本の国体(nationhood)と合っているのである。

 一つの言説によるだけだと、かたよりがおきてしまう。その言説の中でとられている価値づけが、ぜったいに正しいのだとは言い切れないのがある。言説の分析をやってみると、そうできる。

 なにを正の価値として、なにを負の価値とするのかがあり、それで言説が作られる。言説を作るにない手なのが共産党だけど、そのにない手である共産党は、ぜったいのものではない。言説の作り手としての共産党は、死ぬ。作者の死だ。

 作者の死は、読者の誕生によってあがなわれることになる。批評家のロラン・バルト氏はそう言う。その言説をどのように受けとるのかが、あるていど自由になる。作者(共産党)のもつ意図にしばられない。作者の意図から自由に、いろいろに受けとることがなりたつ。

 いっけんすると、共産党による言説は、(共産党を良しとする人にとっては)すごく良いことを言っているように見えるけど、改めて見ると、不たしかなところがある。日本の国の中にいるすべての人がぜったいに幸福になれるような手だてを共産党が知っているわけではないだろう。ぜったいに国がよくなる手だてを知っているのではないはずだ。

 共産党の言説だと、反共をかんぜんに否定してしまう。反共の言説だと、共産党をかんぜんに否定してしまう。どちらの言説も、反対のものを頭からすっかり否定してしまうところがある。それはやりすぎなところがあるから、それぞれの言説を、自己で相対化することがいる。絶対化や単一化することができず、相対化や複数化されざるをえないのが言説だ。

 参照文献 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『国体論 菊と星条旗白井聡(さとし) 『コモリくん、ニホン語に出会う』小森陽一 『超入門! 現代文学理論講座』亀井秀雄 蓼沼(たでぬま)正美 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『これが「教養」だ』清水真木(まき)