政治におけるうら金の語の定義づけとその重要性

 定義づけしづらいものなのが、うら金だ。岸田首相はそう言う。定義づけすることに消極でありうしろ向きである。

 はっきりとは定義づけしづらいものなのが、政治におけるうら金なのだろうか。

 逆にいえば、定義づけすることの重要さが浮かび上がってくるものなのがうら金だとできそうだ。

 定義づけでは、機能と構造の二つがある。うら金において、その機能と構造を明らかにして行く。それが重みをもつ。

 機能では、うら金がどういう働きをしているものなのかがある。それを明らかにして行きたい。何かの働きをしているものなのがうら金だろう。日本の国の政治をよくするまたは悪くする働きをもつ。

 構造では、どういうからくりになっているのかを見て行く。いくつかの要素があって、それらの要素によってなりたつ構造がある。関係し合うことがらが集まったものなのが体系(system)だが、体系としてうら金をとらえて行きたい。

 政治のお金において、うら金に当たるものがある。うら金に当たるものは、その質(内包)をもつ。うら金の質を持つものがいくつかあり、それらの量(外延)がある。一つひとつのうら金が集まったものなのが、量としてのうら金だ。

 動物の犬であれば、犬の質がある。いろいろな犬がいるけど、それらはみんな犬の質を持つ。猫は犬の質を持っていないから、犬と言うわけには行かない。猫には猫の質がある。目の前に具体の犬がいるのだとすれば、それは犬の質を持っているのだから、犬の量のうちの一つだととらえることがなりたつ。

 一義ではうら金をとらえづらい。色々な意味を持つ。多義になってしまう。あいまいさをもつ。そうなってしまうと、修辞学でいわれる多義またはあいまいさの虚偽におちいることになる。

 修辞学においては、一義ではなくて多義やあいまいさがあると、形式の虚偽におちいる。そこに気をつけたい。

 論理においては、語の意味あいが同一であることがいる。同一の意味あいを持っているのでないと、論理の規則に反することになってしまう。白が黒を意味したり、黒が白を意味したりする。戦争が平和を意味したり、平和が戦争を意味したりする。そういったことだとまずい。語の意味あいが二重になるとよくない。

 日常においては、語の意味あいが多重であってもよいことがしばしばある。論理としてげんみつでなくても良いことがあり、じかに言うのではない遠まわしの婉曲(えんきょく)の言い回しがよくはたらくことが少なくない。

 日常とはちがって政治においては論理によることがとくにいる。政治において非論理がまかり通ると、国民(または国民ではないそれ以外の人も)に損や害がおきてしまう。

 政治家が、うら金において、うそをつかない。うそを言わない。論理を重んじて行く。論理だけではなくて、修辞が(少しくらいは)関わってもよいから、うら金の語について、できるだけていねいに定義づけして行く。定義づけの誤解や失敗がおきないようにして行く。

 どういう見解(view)を持つのかがある。与党である自由民主党岸田文雄首相は、うら金を定義づけすることはできづらいといった見解(V)を示す。岸田首相の見解は、はたして正しいものなのか。岸田首相による見解をうたがって行く。そのまま丸ごとうのみにはしない。見解や発言(message)が正しいかどうかを見て行くことがいる。政治において政治家をうたがうことは益になる。

 参照文献 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『新版 ダメな議論』飯田泰之(いいだやすゆき) 『うたがいの神様』千原ジュニア 『「科学的思考」のレッスン 学校で教えてくれないサイエンス』戸田山和久 『疑う力 ビジネスに生かす「IMV 分析」』西成活裕(にしなりかつひろ) 『科学との正しい付き合い方 疑うことからはじめよう』内田麻理香 『日本語の二十一世紀のために』丸谷才一 山崎正和 『うその倫理学』亀山純生(すみお) 『現代哲学事典』山崎正一(まさかず)、市川浩(ひろし)編 『本当にわかる論理学』三浦俊彦