論理の欠如と言葉の崩壊による政治の不信

 うら金についてを、言葉の点から見てみる。

 言葉の点から、政治の不正なお金であるうら金のことを見てみたい。

 与党である自由民主党で、政治家や派閥(はばつ)のうら金のことがとり沙汰されている。言葉の点からそれを見てみるとどういったことが見えてくるだろうか。

 民主主義では言葉が大事だ。言葉への信頼がなくなってしまうと民主主義はなりたちづらい。言葉に価値が置かれずに、不信や猜疑(さいぎ)がおきてしまうとよくない。

 どういうふうに言葉を使うべきか。政治でどういうふうに言葉を使うべきかでは、うそをつかないようにしないとならない。政治でつかれるうそは危ない。国民に損や害がおきてしまう。

 表象(representation)なのが政治家だ。国民そのもの(presentation)なのではない。政治家はうそをしばしばつく。

 うら金のことでは、政治家が表象であることがあらわになっている。表象であるさまがありありとあらわれているのだ。

 心の中の像(image)を外に表現したものなのが表象だ。

 表象である政治家が、うら金のことでどういったふうに言葉を使っているのかがある。まず、うそをつきまくっている。それに加えて、論理を抜きにしてしまっている。論理を抜きにして、修辞(rhetoric)だけによっているのだ。

 修辞を用いるさいには、論理を抜きにすると効果がない。自民党の政治家は、うら金のことで、論理を抜きにして修辞だけを使っている。効果がない修辞の使い方をしているのだ。

 すじ道を通す。論理を使うことによってすじ道を通したうえで、修辞を使う。そうすると修辞が生きてくるのである。論理と修辞の相互の作用だ。その二つの相互の関連である。

 政治における論理の言葉(logos)がある。それを国民は求めている。うら金のことで国民が求めているものの一つとして、論理の言葉がある。論理の言葉が欠けてしまっているから、うら金のことが片づかない。

 ごう引なへ理屈を政治家が言いまくる。詭弁(きべん)を言いまくっているのだ。こじつけの議論である。政治への不信が深まっている。より正確な言い方をしないとならないとすると、政治であるよりも自民党への不信が深まっていると言うべきかもしれない。

 言葉がこわれまくっている。政治において、日本語がこわされてしまっている。うら金のことでは、お金であるだけではなくて、言葉がこわれているのがある。

 政治で(政治家が)言葉を使うさいに国民が求めているものの一つとして、論理の言葉がある。論理の言葉によるようにしなければ、政治ででたらめなことがまかり通ってしまう。うら金のことではそれが浮きぼりになっている。国民が切実に求めているものである、論理の言葉が政治において言われることがいる。

 お金で苦しむ。悩みが深い。いま日本では人々が苦しんだり悩んだりしている。そうした人たちが少なくない。生が多様化しているからだ。かつてのような利益の分配の政治ができなくなっていて、不利益の分配の政治が避けられない。

 論理が欠けてしまいやすい。日本ではそれがある。言葉を抜きにしたはら芸によりがちだ。不利益の分配の政治をやるのが避けられない状況においては、腹芸で政治をやるのは通じづらい。

 はら芸ではなくて、論理の言葉をしっかりと使う。それで政治をやって行く。そうしないと、不利益の分配の政治をしっかりとなしづらい。自民党ははら芸でやってしまっていて、論理の言葉を使えていない。

 参照文献 『うその倫理学』亀山純生(すみお) 『日本語の二十一世紀のために』丸谷才一 山崎正和 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦現代思想を読む事典』今村仁司編 『政治家を疑え』高瀬淳一 『大学受験に強くなる教養講座』横山雅彦 『議論入門 負けないための五つの技術』香西秀信 『悩める日本人 「人生案内」に見る現代社会の姿』山田昌弘 『信頼学の教室』中谷内一也(なかやちかずや)