選挙と政治の対立-立憲と自民の共闘

 立憲が、自民と組んだ。自民と共闘した。選挙においてである。

 共産党などの左派と、自民党が対立する。その中で、立憲は自民党といっしょになったのである。

 京都市の市長の選挙では、野党の立憲民主党が与党の自由民主党と組んだ。それで自民党がおす候補者が勝ったのである。そのことをどのように見なせるだろうか。

 かなりの批判の声が立憲には投げかけられている。なんで自民党と組んだのか。なんで反共(反共産主義)を言う自民党を立憲は良しとしたのか。そうした声が言われているのである。

 対立し合う。選挙では候補者どうしが対立し合うのがあり、味方と敵といったようになる。我々(we)と彼ら(they)だ。

 敵であったとしても、愛と尊敬をもつ。なかなかそれはできづらい。気持ちとしては、敵となる候補者に愛と尊敬をもつのだとしても、形としては負かすことがいるのが敵だから、冷たいあつかいになる。温かさを示しづらい。

 倫理からすると、たとえ選挙において敵に当たる人であったとしても、愛と尊敬をもちたい。愛と尊敬を持ちながら選挙を戦い合いたいものである。敵となる候補者を軽べつするのはしないようにしたい。

 敵となる候補者を軽べつしてしまうと非倫理になる。こんかいの京都の市長の選挙では、敵となる候補者を軽べつするようなことがなされたのがあるかもしれない。敵に愛と尊敬を持てない。

 立憲民主党であるよりも立憲主義に目を向けてみたい。政党の名前のところに含まれているところのものである立憲主義(憲法主義)を重んじてみる。

 立憲民主党のことはひとまず置いておくとして、立憲主義を見てみると、それがこわれてしまっている。近代の立憲主義がこわれてしまっているのがわざわいしている。日本ではそれがこわれてしまっているから、選挙で負けてしまうと、それを受け入れられない。状況としてそれがありそうだ。

 今回は負けてもしかたがないな、と納得しづらい。立憲主義がこわれていると、勝ちと負けが交互にくり返されなくなり、勝者と敗者が固定化しがちになる。

 つぎに勝てばよいのだなといったようなゆとりを持てるかどうかがある。負けるが勝ち(stoop to conquer)だ。一回こっきりだったら短期の視点だが、何回もにおいてでどうなのかは長期の視点だ。

 法の決まりは、長期の視点によるものである。もしもあした世界がはめつするのだったら、法の決まりを守っても意味がない。短期の視点によるのだったら、法の決まりを守りづらいのである。

 短期の視点だと権威がなりたちづらい。自然の状態(natural state)になってしまう。権威がない状態なのが自然の状態だ。混沌(こんとん)である。ばらばらの状態だ。統一された状態ではない。

 科学のゆとりを持てるかどうかは、立憲主義が保たれているかそれともこわれてしまっているかが影響する。科学のゆとりを持てるようにして行く。立憲主義によるようにして行きたい。

 政治の選挙などで、お互いに立ち場が分かれる。単純な二分法におちいってしまうのが、味方と敵に分かれるものだ。我々か彼らかだ。敵とか彼らに当たるものを、やっつける。敵または彼らを、完全につぶす。完全にいなくさせる。そこまで行ってしまう危なさがあるのである。

 立憲が自民と組んで、反共の仲間どうしみたいになったのが悪かった。その悪さはあるだろうけど、それとは別に、何が良くて何が悪いのかを見てみたい。

 すごいはげしい対立になってしまうのが政治だ。いちばんはげしい対立になってしまう。学者のカール・シュミット氏はそう言う。こんかいの京都の市長の選挙では、政治がおきた。はげしい対立がおきたのである。

 権威がない。その状態が自然の状態だ。戦争の状態だ。自然の状態においておきるのが政治だ。こんかいの京都の市長の選挙では、権威がない状態になっているところがある。敵または彼らにたいして、愛と尊敬をもつゆとりが欠けてしまっている。

 愛は人を近づける。尊敬は人を遠ざける。その二つを持っていると良い。倫理においてそれがある。その二つを選挙において持つのはなかなか難しい。形としてはやっつけるべきものなのが敵または彼らだから、愛と尊敬が欠けるのがうながされる。

 立憲が自民と組んだのが悪いとするのだとしても、それだけではなくて、対立のよし悪しがある。対立があってもよいけど、それが敵対の対立(antagonism)になってしまうとまずい。闘技の対立(agonism)に転じて行く。闘技の民主主義ではそうして行くことがいる。

 対立があるのは政治があることだから、それはあって良い。そのうえで、敵とするのではなくて好敵手(rival)として行く。韓国の政治家の金大中(きむでじゅん)氏は、民主主義には敵はいなくて好敵手だけがいるのだと言っている。

 こんかいの京都の市長の選挙では、立憲が悪いのだとするのとは別に、民主主義において敵を作ってしまうのかそれともよき好敵手とするのかの分かれ目があるのを見て取りたい。敵を作ってしまうと民主主義が成り立たなくなってしまう。それに気をつけるようにしたい。

 はげしい対立になるのが政治だからなかなか難しいのはあるけど、敵に当たる人にたいして愛と尊敬をもつようにして、軽べつしないようにしたい。むずかしいことではあるけど、愛と尊敬を持ちながらの批判ができればさいわいだ。

 軽べつで批判をするのであるよりは、悪いところがあるのを愛と尊敬をもちながら批判して行く。それが理想である。はたして自分にはそれができているのかと言われれば、できているとは言えないのがあるから、けっして他人ごとではない。ついつい軽べつしてしまいがちなのがあるから、それに気をつけて行きたい。

 参照文献 『倫理学を学ぶ人のために』宇都宮芳明(よしあき)、熊野純彦(くまのすみひこ)編 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『ブリッジマンの技術』鎌田浩毅(ひろき) 『憲法という希望』木村草太(そうた) 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『リーダーは半歩前を歩け 金大中(きむでじゅん)というヒント』姜尚中(かんさんじゅん) 『思考のレッスン』丸谷才一(まるやさいいち) 『政治家を疑え』高瀬淳一 『逆説思考 自分の「頭」をどう疑うか』森下伸也(しんや) 『政治の見方』岩崎正洋 西岡晋(すすむ) 山本達也 『境界線の政治学杉田敦(あつし) 『超訳 日本国憲法池上彰(いけがみあきら) 『中高生のための憲法教室』伊藤真(まこと) 『憲法主義 条文には書かれていない本質』南野森(しげる) 内山奈月 『逆説の法則』西成活裕(にしなりかつひろ) 『法哲学入門』長尾龍一