中東の紛争と、反証主義の必要性―うそを証明できる可能性の必要性

 中東の紛争で、イスラエルをよしとしているのがアメリカだ。

 パレスチナガザ地区を攻撃しているのがイスラエルである。そのイスラエルをよしとするのがアメリカだけど、アメリカの言っていることは本当なのだろうか。まことなのだろうか。

 本当やまことのことを、アメリカが言ったりやったりしているとは言い切れそうにない。うそである見こみがある。

 中東では紛争がおきていて、イスラエルパレスチナ(のイスラム主義の集団)が対立し合っている。中東の紛争をどのようにとらえるべきかでは、反証主義によることがいりそうだ。

 まちがいなく本当やまことのことを、イスラエルが言ったりやったりしているとは言い切れそうにない。イスラエルをよしとしているアメリカや欧州の国もまた、完全に本当やまことのことを言ったりやったりしているのだとは見なせそうにない。

 どういうことが反証主義ではいるのかといえば、うそを証明できる可能性をもつことだ。まちがいなく本当やまことのことを言ったりやったりしているのだとはしないようにしなければならない。

 うそをつくのはよいことなのだろうか。本当やまことではないことを言うのは悪いことなのだろうか。かりに、うそをつくのは悪いのだとしても、それはあくまでも一つの見なし方にすぎない。さしあたっての見なし方にすぎず、そのこと(うそは悪いとすること)について、うそを証明できる可能性を持たなければならない。

 いかなるさいにもうそは悪いとは言い切れず、日常であれば、遠まわしの婉曲(えんきょく)の言い方がよくはたらくことが少なくない。日常であればそうだけど、政治においてはうそをつくと危ない。政治のうそは危険性が小さくない。

 なんで、パレスチナの人たち(とイスラエルの人たち)が、暴力を振るわれているのだろうか。なんでパレスチナイスラエルの民間の人たちに暴力がふるわれているのかといえば、国がうそをついているからだろう。それが小さくない。

 暴力をふるっているのがイスラエルであり、パレスチナガザ地区を攻撃している。暴力をふるわれることがパレスチナではおきてしまっているが、それはイスラエルがうそをついていることがひびいている。わざわいしている。

 アメリカがうそをつく。欧州の国がうそをつく。それによって、パレスチナの人たちに暴力がふるわれてしまう。イスラエルの人たちにも暴力がふるわれてしまう。政治におけるうその危険性(害)がおきているのである。

 国の長は、政治家だ。イスラエルの国の長や、アメリカの大統領は、政治家であり、表象(representation)だ。表象であるのが政治家であり、たやすくうそをつく。うそをつきやすいのが、表象である政治家なのである。

 心の中の像(image)を外に表現したものなのが表象だ。

 国民そのもの(presentation)とは、ずれてしまう。それが表象としての政治家である。イスラエルの国の長は、イスラエルの国民とは、ずれてしまっている。アメリカの大統領は、アメリカの国民と、ずれてしまう。政治家が、(国民そのものではなくて)表象だからである。

 本当やまことではなくて、うそである見こみが濃いのが、イスラエルアメリカや欧州の国が言ったりやったりしていることだろう。まちがいなく本当やまことのことを言ったりやったりしているのだと国がしてしまうと、その国は、反証の可能性を持たないことになってしまう。

 国が何かを言ったりやったりするさいには、反証の可能性を持たなければならない。うそを証明できる可能性を、つねにもつ。それがいることである。イスラエルが何かを言ったりやったりするさいに、それについて、うそを証明できる可能性をもつようにする。まちがいなく本当やまことのことなのだとはしないようにする。

 イスラエルアメリカや欧州の国は、まちがったことを言ったりやったりしている見こみが低くない。(正しさが実証されるのではなくて)反証される見こみがけっこうあるのである。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『うその倫理学』亀山純生(すみお) 『日本語の二十一世紀のために』丸谷才一 山崎正和 『双書 哲学塾 自由論』井上達夫 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『政治家を疑え』高瀬淳一 『増補 靖国史観 日本思想を読みなおす』小島毅(つよし)