中東の地域で、紛争がおきている。
イスラエルが、パレスチナから攻撃を受けた。し返しとして、イスラエルはパレスチナの自治区のガザ地区を攻撃している。ますますのさらなる攻撃のために、ガザ地区から人々を避難させている。
パレスチナのイスラム主義(原理主義)の集団の指導者が、イスラエルを攻撃したことを、どのように見なせるだろうか。
パレスチナから攻撃されたイスラエルをよしとする。パレスチナを批判する。または、パレスチナを良しとする。そういったような、イスラエルを良しとしたり、パレスチナを良しとしたりする立ち場がある。
イスラエルを良しとするのだと、国を良しとすることになってしまう。
国を良しとするのではなくて、国のあり方をとり上げてみたい。国と、国のあり方の二つを、ふ分けしたい。
イスラエルを良しとするのではなくて、民主主義を良しとして行く。パレスチナ(またはイスラエル)を批判するのであるよりも、原理主義を批判して行く。
国(や地域)のあり方としては、民主主義と原理主義がある。民主主義によっていれば、頭を割らずにすむ。(投票などで)数を割るやり方がなりたつ。原理主義のあり方だと、頭を割ることになってしまう。暴力をふるう。
根拠を抜きにして、あることを正しいことだとする。根拠を示さず、明らかにしない。それが原理主義のあり方である。上が言う正しさを、下はうたがってはならない。上を信じなければならないのである。戦前の大日本帝国のあり方がこれである。
お互いに頭を割り合うのは、原理主義どうしのぶつかり合いだ。イスラエルとパレスチナが、お互いに頭を割り合っているのであれば、原理主義どうしのぶつかり合いであるのを示す。
敵を作ってしまうのが原理主義のあり方だ。味方(we)と敵(they)に分ける。たんじゅんな二元論だ。原理主義とはちがい、民主主義であれば、敵を作らずにすむ。敵を作らないのが民主主義だ。良き好敵手(rival)や競争の相手はいる。
頭を割り合うことになる、原理主義どうしがぶつかり合っているのがイスラエルとパレスチナなのだとするのであれば、(それらの国や地域であるよりは)原理主義を批判して行く。民主主義を良しとするようにして行く。そういったやり方ができそうだ。
たとえどのような国または地域であったとしても、原理主義のあり方であれば悪い。たとえばアメリカであれば、アメリカが正しいのではない。正義なのではない。
民主主義によっていれば良いと言えるけど、原理主義によっているのならアメリカを悪いと見なすことができて、批判しなければならない。アメリカを良しとするのではなくて、民主主義を良しとして行く。
デモをやるさいには、イスラエルを良しとしたり、パレスチナを良しとしたりするのがある。それらのデモをやるのは自由によることだけど、そうしたものだけではなくて、原理主義を批判するデモや、民主主義を良しとするデモが行なわれれば良い。
どちらかと言えば、どこかの具体の国や地域を良しとするデモをやるのであるよりは(そうしたデモはあって良いことだけど)、原理主義を批判するのや民主主義を良しとするデモがなされたほうが良い。そう見なしてみたい。
原理主義や民主主義をとり上げるデモのほうが(どこかの国や地域を良しとするのよりも)より良い。なぜそうできるのかといえば、その国や地域のあり方がどうなのかをとり上げたほうが良いからである。たとえどこの国または地域(たとえばアメリカなど)であったとしても、原理主義のあり方であれば批判をするべきだし、民主主義のあり方であれば良いと見なせるからだ。
民主主義では、とりわけ(おたがいに議論をやり合う)闘技の民主主義がのぞましい。闘技の民主主義だったら、敵対の対立(antagonism)を、闘技の対立(agonism)に変えることがなりたつ。後者の闘技の対立であれば、お互いに議論をし合うことが可能だ。前者の敵対の対立だと、民主主義が否定されて、戦争や内戦がおきてしまう。
情報の点では、原理主義だと上からの情報の統制がなされてしまう。上からの情報の統制をしないようにして、情報を民主化して行く。いろいろな情報を自由に受けとれるようにして、いろいろな言説を受けとれるようであることがいる。いろいろな言説を受けとるようにして、じっくりとものごとを判断できるようであったほうが良い。
参照文献 『原理主義と民主主義』根岸毅(たけし) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『リーダーは半歩前を歩け 金大中(きむでじゅん)というヒント』姜尚中(かんさんじゅん) 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『情報政治学講義』高瀬淳一 『十三歳からのテロ問題―リアルな「正義論」の話』加藤朗(あきら) 『現代思想を読む事典』今村仁司編