歴史の認識と暴力:イスラエルとパレスチナの紛争と歴史の視点

 歴史の点から、イスラエルがいまパレスチナになしていることを見てみるとどういった見なし方ができるだろうか。

 歴史の字がある。歴は起きたことや経験したことだ。史は書き記すことである。

 認識と解釈の二つにふ分けすることがなりたつ。歴史においてはその二つにふ分けすることができて、認識は五 W 一 H である。who、when、where、what、why、how の六つだ。認識の五 W 一 H は事実に当たるものだから、見なし方の食いちがいがおきづらい。

 歴史の認識である五 W 一 H で見てみると、パレスチナイスラム主義の勢力がイスラエルに暴力をふるうことがなされた。暴力をふるわれたのはイスラエルである。

 イスラエルに暴力をふるった主体をやっつける。暴力の主体をやっつけるために、イスラエルはいまにおいてパレスチナに暴力をふるっている。イスラエルが暴力をふるうことによって、パレスチナにいる子どもや女性が多く殺されている。パレスチナの子どもたちや女性たちが暴力の被害にあう。

 あったことを無かったことにはできづらい。解釈によるのであっても、すでに起きたことを無かったことにはできづらいのがある。あったことはあったことであり、それを認めざるをえない。歴史の認識である五 W 一 H のところは認めざるをえないのである。

 すでにおきたものである五 W 一 H のところは否定しがたいのがあるから、歴史の認識では食いちがいはおきづらいが、解釈では食いちがう。歴史の解釈においては食いちがいがおきるのがあり、とらえ方に相違(そうい)点がおきる。

 論理によって見てみると、世界中の多くの人をすべてだますことはできづらい。関係者を含めて世界中の多くの人をだますのは、ぼう大な労力がかかることだから、合理性が低い。歴史の認識である五 W 一 H のところは共通点になりやすいところであり、そこまでごう引に否定してしまうのは非論理である。

 絶対の真理とまではいえないのはあるけど、歴史において共通点になりやすいところがあって、そこは認めたほうが論理によることになる。真理がどうなのかについては、お互いに対話をし合うことが欠かせない。それにくわえて、うそを証明することができる可能性があるのでないとならないのもある。反証の可能性を持つことがいる。

 解釈においては、イスラエルは正しいことをなした。イスラエルは自国の行ないをそう解釈するだろう。自国の行ないを正当化や合理化する。どういうふうに解釈するのが正しいのかは、見なし方が分かれるのがあり、食いちがいがおきてしまう。

 国は自国の行ないを正当化や合理化するのがあり、自国に都合がよい解釈をして行く。歴史の解釈にかたよりがおきることになる。それとは別に、少なくとも歴史の認識である五 W 一 H は相違点がおきづらく共通点を持ちやすいところだから、そこは認めなければならないだろう。

 イスラエルパレスチナに暴力をふるい、パレスチナ人の子どもたちや女性たちに多くの被害がおきた。パレスチナ人の子どもたちや女性たちに多くの死者が出た。それをどのように解釈するのにせよ、起きたことそのものは否定しがたい。

 むりやりに解釈によって起きたことを否定してしまわないかぎり、起きたことは起きたこととしてある。暴力をふるわれた死者の意味あいは小さいものではなくて、その意味あいは大きい。暴力をふるわれてしまった死者にじゅうぶんに光を当てて行くことがだいじだろう。日ごろは生者を主にしているけど、それを転じて(生者を従にして)死者を主にするくらいのことがいる。

 生者では、暴力をふるわれた人に光を当てて行く。イスラエルによって暴力をふるわれた人たちがいて、そうした人たち(被害者)は負のこん跡をもつ。両義性(ambivalence)を持つことになる。排除のこん跡をもつ。両価性や両面価値性を持つ人たちに光を当てて行き、そこから十分に意味あいを見いだすことがいる。

 参照文献 『歴史 / 修正主義 思考のフロンティア』高橋哲哉歴史学ってなんだ?』小田中(おだなか)直樹 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『本当にわかる論理学』三浦俊彦 『歴史家が見る現代世界』入江昭 『究極の思考術 あなたの論理思考力がアップする「二項対立」の視点十五』木山泰嗣(ひろつぐ) 『あいだ哲学者は語る どんな問いにも交通論』篠原資明(しのはらもとあき) 『暴力 思考のフロンティア』上野成利(なりとし) 『現代思想を読む事典』今村仁司