政治のうら金におけるお金の線引きの政治性と、体系(system)の再構築

 政治家が、うら金をためこむ。

 検察が、うら金を捜査した。お金の額で線引きをした。線引きのし方を見てみるとどういったことが見えてくるだろうか。

 うら金の額がある。四〇〇〇万円を超えたら、検察が起訴する。その額を超えなかったら、起訴しない。線引きが四〇〇〇万円で引かれているという。

 お金の額で線引きが引かれているさいに、それを自明とすることはできづらい。お金の額の線引きを自明のものだとしているのが検察だ。あと、(うら金をためていた政治家がたくさんいる)与党である自由民主党である。

 お金の額の線引きを自明なものだとするのは、自然化だ。検察や自民党は自然化しているのがある。線引きを自然化しているのがあるけど、線引きについて色々な人が批判を投げかけている。批判をするのは脱自然化の試みだ。

 検察や自民党がとっているあり方をそのまま丸ごとうのみにしてしまう。検察や自民党が言っていることをそのまま丸ごとうのみにしてしまうと、自然化に協調することになってしまう。

 四〇〇〇万円より上か下かの線引きは、分類づけだ。上は負の価値であり、下は正の価値だ。下は負の価値ではない。

 どういうふうに分類づけをするのかは、客観のものとは言えそうにない。検察や自民党がもっている主観の価値による。主観の価値で分類づけをしているから、分類の線がゆらぐ。四〇〇〇万円より上は負の価値で、それよりも下は正の価値だとは、げんみつには定めづらい。

 すごいぐらぐらと揺れてしまっている。分類の線がぐらぐらと揺れまくっているのがあり、線を引いているのがあまり意味をなさない。きっちりと線を引けていれば、箱(box)による分類づけがなりたつ。線がぐらぐらと揺れまくっていれば、規模(scale)による分類づけになる。

 箱による分類づけがなりたっていないのがうら金だろう。検察や自民党は、箱による分類づけをやっているけど、それが成立しているとは言えそうにない。じっさいには規模(きぼ)による分類づけになっていて、お金の額によってそこまで大きなちがいが起きていない。ちがう箱に分類づけできるほどのちがいがおきていない。

 規模による分類づけをするのであれば、箱に入れられない。ちがう箱に入れられないのがあって、箱から出し入れすることがなりたつ。

 うら金では、悪いものが入っている箱と、良いものが入っている箱に分けているのが検察や自民党だけど、いったん箱に入れたものをとり出す。箱から出して、規模による分類づけを行なう。

 規模のちがいによって分類づけを行なう。規模によるのだとすれば、ちがう箱に入れられるほどの差異性はなくて、類似性によっているのがうら金をためていた自民党の政治家たちだろう。

 持っている価値がある。価値がちがえば、分類づけがちがってくる。検察がもっている価値だと、四〇〇〇万円より上か下かの分類づけになる。検察による分類づけを自然化しない。脱自然化してみると、ちがう価値による分類づけがなりたつ。

 検察とはちがう価値による分類づけとしては、たとえば四〇〇〇万円ではなくて四〇〇円よりも上か下かの分類づけができる。お金の額による線引きを自然化しないようにして、構築された線引きを一から作り直す。脱構築(deconstruction)がなりたつ。検察がもっている価値がおかしいのだとすれば、線引きをいまいちど一から作り直したほうがよい。線を引き直して、体系(system)をとらえ直す。

 関係し合うことがらが集まったものなのが体系だ。うら金では、四〇〇〇万円で線引きされているのがあるけど、その額よりも上であろうとも下であろうとも同じ体系の中にある。

 検察によって線引きされたお金の額よりも上なら悪いものの体系であり、下であればそれほど悪くはない体系なのだとはできそうにない。たとえば、ちがう線引きをするとすれば、四〇〇〇万円ではなくて四〇〇円よりも上であればみんな同じ体系の中だとすることがなりたつ。

 参照文献 『すっきりわかる! 超訳「哲学用語」事典』小川仁志(ひとし) 『境界線の政治学杉田敦(あつし) 『ポケット図解 構造主義がよ~くわかる本 人間と社会を縛る構造を解き明かす』高田明典(あきのり) 『構築主義とは何か』上野千鶴子編 『できる大人はこう考える』高瀬淳一 『脱構築 思考のフロンティア』守中高明 『うたがいの神様』千原ジュニア 『考える技術』大前研一 『思考の「型」を身につけよう 人生の最適解を導くヒント』飯田泰之(いいだやすゆき)