お金を配ったのが買収に当たるのかどうか―三つの段階で見てみられる

 お金は配ったが、買収ではない。買収のうたがいで逮捕された前法相はそう言っているのだという。選挙のさいに票を得るために多数の人にお金を配ったことを認めながら、それは買収ではないのだという。

 前法相が言うように、お金を配りはしたが買収ではないということはなりたつのだろうか。そのことを見て行くさいには、そもそもの話として、買収とは何なのかを見て行くことができる。

 そもそもの話として買収とは何なのかは、もととなる価値判断や前提条件である。それを明らかにして、そのつぎに、選挙が行なわれたさいに前法相が具体としてどのようにお金を配って票を得ようとしたのかを見て行く。

 それらをはっきりとさせたうえで、一般的にこれが買収だとされるものと、前法相が具体としてどのようにお金を配って票を得ようとしたのかの二つをつき合わせるようにする。

 お金を配りつつも買収ではないというのがなりたつかどうかでは、少なくとも三つの段階に区切ることがなりたつ。その三つのそれぞれがはっきりとされていないとならず、そのうちのどれかにまちがったところがあるとすれば、ふさわしい見なしかたになっていないおそれがある。

 三つの段階のうちで、はじめのもととなる価値判断や前提条件がおかしいことがある。買収とは何かの一般の定義づけだ。つぎに具体として前法相が選挙のさいにお金を配って票を得ようとしたのがあるが、その判断が正しいものなのかがある。さらに、その二つのつき合せ方がきちんとしたものかどうかがある。

 ふさわしい見なし方だと言えるためには、三つの段階のそれぞれが適したものでないとならない。そのうちのどれかがまちがっているか、きちんと行なわれていないのであれば、まちがった見なし方をすることになってしまう。そこを改めて見て行くようにして、いい加減な見かたにならないようにしたい。

 野球でいうと、投手が投げた球がストライクゾーンの枠の中に入ったがストライクではないとか、打者がヒットを打ったのにヒットではないとされたら、まともな試合がなりたたない。めちゃめちゃになってしまう。試合がきちんと成立するためには、そのときどきで勝手にストライクやヒットかどうかを変えてはならず、どういうときであっても同じになるようにして、しかるべき決まりに照らし合わせて最低限の一貫性をもたせないとならない。

 参照文献 『人を動かす質問力』谷原誠