桜を見る会と、条件や状況―条件や状況を抜きにして、評価することはできづらい

 桜を見る会についてをとり上げる。これはどのような条件や状況かというのと関わっていて、それを抜きにすることはできづらい。

 政治というのは、統治としての政治(ガバーメント)と闘争としての政治(ポリティクス)があるとされる。そのうちで、桜を見る会のことでは、統治としての政治つまり行政のおかしさがあることが疑われる。これを一般化して、行政の一般で色々とおかしいことが行なわれているとか、もっとつっこんで言えば、行政そのものが機能の不全におちいっている、と見ることもできないではない。行政が腐敗しているつまりうみがたまっていると勘ぐれる。

 もしも、桜を見る会に少なからぬ不手ぎわがあったのだとしても、それはあくまでもいまの政権やいまの与党において例外的なことにすぎないというのであれば、そうであることをいまの政権やいまの与党が自分たちで立証するべきだろう。説明する責任があるから、説明して立証するべきである。それができないのであれば、例外的なことではないという見かたは一つの視点としてはなりたつことになる。

 桜を見る会をとり上げるさいに、問題の種類がどうかというのがある。問題には大きく二つあって、はっきりととらえられるものとそうではないものがあるとされる。はっきりと目標を定められたり、問題の質を定められたりするものと、それができづらいものとがある。定義明確問題と、定義不明確問題のちがいだ。

 たとえば人生というのは定義不明確問題によるところがある。人生の中では、はじめは無駄だと思えた経験などが、あとになって無駄ではないことが分かることがある。これは、人生においては大きな目標が必ずしも定まっていなくて、とちゅうで変わることがあることをあらわす。人生というのは、どこで終わるか(死ぬか)が分からないのがあるので、どこまでつづくかが分からないし、期間で言っても、長期から中期から短期まで色々に見られる。

 問題の種類がどうかということでは、桜を見る会は、定義不明確問題であるところが大きい。問題の全ぼうがまだはっきりとしていない。問題の種類が定義不明確問題であることから、そう大したことではないと見られるのはあるかもしれないが、それだけではなくて、大ごとだというふうに見なす見なし方もなりたつ。いちがいには決めがたい。

 定義不明確問題であるところが大きいのが桜を見る会のことなのであれば、色々な条件や状況をくみ入れて見ることができる。さまざまな複数の条件や状況をとることができて、それらをとったさいに、こういうふうに言えるとか、こういうふうに見られる、と言えるのがある。何の条件や状況も抜きにして、ただ一つの答えがあるというのではないだろう。ただ一つの答えとなる見なし方があるだけだというのは、定義明確問題であることをしめす。

 定義明確問題であるのが桜を見る会のことであるのなら、たった一つの答えや、たった一つの言説(主張)だけでことが足りるだろう。そうではなくて、定義不明確問題であるのなら、色々な見なし方や色々な言説がさまざまにありえることになる。たった一つの角度からだけではなくて、色々な角度から見られるものである。

 色々な角度からの見なし方がなりたつのには、互いに相反する見なし方を含む。定義明確問題であれば、たとえば桜を見る会についてをとても小さなことだと見なすこともできるが、そうであるとすれば、小さいことなのだからすみやかに片がつくはずであって、すみやかに片をつけるためにいまの政権やいまの与党は協力をおしまないだろう。真相を明らかにするために力を注いで、真相はおそらくこうだったということがはやめにわかって、それですむ。

 じっさいの現実では、いまの政権やいまの与党は、それとは異なる反対の動きつまり非協力な動きをしている。ということは、間接的に、桜を見る会のことは、とるに足りない小さいことだとは必ずしも見なすことはできない、ということを暗に示していると受けとれる。とるに足りない小さいことなのであれば、大きいことだという仮説が否定されるはずだが、大きいことだという仮説もまたなりたつので、小さいことだという見かたは必ずしも絶対的に正しいとは言えそうにない。

 参照文献 『クリティカルシンキング 入門篇 実践篇』E・B・ゼックミスタ J・E・ジョンソン 宮元博章 道田泰司他訳 『政治家を疑え』高瀬淳一 『反証主義』小河原(こがわら)誠 『青年教師・論理を鍛える』横山験也 『「説明責任」とは何か メディア戦略の視点から考える』井之上喬(たかし)