いまの時の政権における、情報と雑音の区別―信号(シグナル)と雑音(ノイズ)

 きびしい質問を投げかけてくる記者の言うことは、当たっていない。官房長官は会見の中でしばしばそう答えている。

 官房長官を含めたいまの時の政権は、野党や記者がきびしいことを言うことにたいして、それはまったく当たらないという態度をとることが多い。相手にしない態度をとっている。

 野党や記者がいまの時の政権にたいしてきびしいことを言うのは、どれもが当たっていないことなのだろうか。

 自分たちにたいして厳しいことを言ってくるのにたいして、それにまともに耳を貸さない。このあり方は、情報か雑音かでいうと、雑音として見なしていることをしめす。

 いまの時の政権は、自分たちに都合のよいことについては情報と見なして受けとって、自分たちに都合のよくないことについては雑音としてあしらっていて、まともに受けとろうとはしない。

 認知科学では、自分にとって益になるものを情報と見なし、益にならないものは雑音と見なす認知のはたらきがあるのだという。この認知のはたらきは、人によってそれぞれ異なっている。

 情報という点では、自分にとって疎遠なものには、関心があまり働かないので、雑音と見なされることになりがちだ。自分にとって疎遠なものは、外部に当たるものなので、大きな意味を持つものだとはなりづらい。

 いまの時の政権は、自分たちにとって都合のよい、つまり自明なものの持つ自明性をより高めるようなものを情報として受けとっている。自明性の厚い殻(から)の厚みをより増そうとして、その殻や外被(がいひ)を強めることをよしとしている。

 いまの時の政権が嫌うのは、情報の中でも、自分たちにとって都合の悪いものだ。その都合の悪いものというのは、自明性を揺るがすものだからである。自明性の持つ厚い殻を壊しかねないものだから、そうした情報にたいしては、雑音としてあつかい、まともに受けとろうとはしない。

 情報を優として、雑音を劣とするようなあり方になっているとしても、それを反転させることがなりたつ。雑音であれば、まともに受けとることはいらないので、聞く耳を持たず、耳をふさいでしまってもかまわないとすると、雑音を低く見なすことになる。それを反転させられるとすれば、情報と見なしているものこそ劣であって、その値うちは低く、雑音とされるものこそが優であり、ほんとうは大事なものだということになる。

 ほんとうは優である雑音と、ほんとうは劣である情報ををとりちがえていて、あべこべにしてしまっているのが、いまの時の政権にはあるのではないだろうか。認知のあり方がおかしくて、それが正されていない。

 自分たちがよしとすることの確からしさをより増すのが実証で、それを裏切るのが反証だ。実証と反証のどちらが情報でどちらが雑音なのかというと、実証が情報なのではなくて、反証こそが情報だという見かたがなりたつ。反証の情報こそが大切なのであって、実証は(雑音とまでは言えなくても)その価値は必ずしも高くはない。

 遠近法でいうと、近いものを近づけて、遠いものを遠ざけるというのは、実証をよしとして、反証をとらないものである。そうではなくて、遠近法を逆転させて、近いものを近づけるのではなくて、遠いものこそ近づけるようにする。そうすることが、反証を(雑音ではなく)情報として重んじることだ。

 参照文献 『情報検索のスキル 未知の問題をどう解くか』三輪眞木子(みわまきこ) 『情報生産者になる』上野千鶴子現代思想の基礎理論』今村仁司脱構築 思考のフロンティア』守中高明反証主義』小河原(こがわら)誠