桜を見る会のことは、とり上げるまでもないような、とるに足りないことなのだろうか―色々に見なせるのはあるだろうが

 桜を見る会のことは、さして重要なことではない。とるに足りないことである。もっとほかの、自然災害の被害などで困っている人を救うことに力を入れるべきだ。そういう声があった。

 たしかに、客観的に見て、桜を見る会のことがほかのことよりも重要だとは必ずしも言えそうにはない。もっとほかの意味や価値のあることに力を注ぐべきだというのは意見としてはなりたつのにちがいない。

 桜を見る会のことと、そのほかのことというふうに、比較をして見るのではなくて、あくまでも桜を見る会のことに論点を置いて見られるとすると、そこに問題はあるのか無いのかがある。そこに問題は無いということはできないのではないだろうか。

 論点を限定して、桜を見る会のことだけを見るようにすれば、問題が無いということはできづらい。それも、決して小さくはない問題がある疑いがある。そうであることから、その問題を放ったらかしにするのは適したことだとは言えず、何らかの形で解決することが行なわれるのがふさわしい。

 桜を見る会のことに限ったことではないのだが、いまの時の政権に問題があるということが言われたさいに、そこからさらなる問題が起きることになるのだ。副次や上位の問題がおきてくる。いまの時の政権が、問題にきちんと向き合おうとはせずに、逃げに逃げるので、魚で言うとうなぎのように、つかもうとしてもなかなかつかめない。

 ほんらいは、公共的なことがらなのだから、さっさとやってぱっぱと片づくというくらいでよいのだが、それができないのは、いまの時の政権が、副次や上位の問題を自分たちで引きおこしているからなのである。まるで魚のうなぎのように、つかもうとしてもつかめなくて、逃げていってしまう。逃げるが勝ちみたいになっている。

 逃げた者勝ちとはいっても、それそのものがあらためて見ればおかしいことだし、あとには行動の痕跡(こんせき)が少なからず残っているから、ことわざでいう頭隠して尻隠さずとか、裸の王さまのようにはなっているのはあるのだが。ことわざでは岡目八目と言われていて、岡目つまり(当人ではなく)はたから見ていると、八目(はちもく)ほどの有利があるつまりよりよく見えるところがある。岡というのは非正規とか脇の者というのをあらわす。八目というのは囲碁で八手のことだ。

 二分法で見ないのだとすれば、桜を見る会のことは、とんでもなく重大なことか、それともまったくとるに足りないことか、というふうに二つのどちらかに割り振れるものだとは見なしづらい。誰もが認めるようなとんでもなく重大なことだと言うと大げさになるが、かといって、まったくとるに足りないことだというのもまた適したことだとは言えそうにない。

 ほかのどんなことよりも優先させることがいるのが桜を見る会のことだとは言えないが、まったくどうでもよいような大したことがないものだとも言えず、とり上げる値うちがまったくないことだとは言えないものである。とり上げてみるだけの一定の値うちはあるのではないだろうか。

 もし、とり上げるだけの値うちがまったくないのであれば、桜を見る会はまったく理想のあり方で行なわれつづけてきたことになる。非の打ちどころがなく、火もたっていなければ煙もたってはいない。見直しや反省をすることがまったくいらないことになる。そのような理想のあり方になっていたのかというと、そうではなくて、現実にはこの会は中止になることが決まっている。それはすなわち、問題があったということを示す。

 問題があったということは、それがどういったことだったのかを調べて探らないとならないし、なぜなのかというふうに問いかけて行って、要因が何だったのかを見て行く。それでそれにたいして手を打つようにする。そのようにすることは、桜を見る会のことがとるに足りないことだとすれば、無駄なことのように見えるかもしれないが、無駄なことのようでいて意味のあることなのではないだろうか。無駄をなくすというのは、問題を放ったらかしにしておいたりうやむやなままにして水に流したりすることと同じ意味ではないことだろう。

 参照文献 『無駄学』西成活裕(にしなりかつひろ) 『トヨタ式「スピード問題解決」』若松義人 『考える技術』大前研一左巻きの時計』阿刀田高(あとうだたかし)