桜を見る会と、価値のあり無し―政治においてとり上げるべき価値のあることと無いこと

 桜を見る会のことよりも、もっと重要なことはほかにある。もっと重要なことをとり上げるべきだ。そういう声があるが、これにはたしかに一理あるのはまちがいない。

 テレビ番組のキャスターは、テレビ番組の中で、桜を見る会なんかを国会でとり上げるのはまったくもって適したことではない、といったようなことを言っていたという。さすがにそれは言いすぎであって、客観的にまったくとり上げる価値がないとまでは言えないものだろう。はっきりと白か黒かに分けられる二分法では語れないはずである。

 政治において、重要な価値を持つこととはどういうものなのだろうか。それについて場合分けをして見られるとすると、価値があるものと価値がないものとに大別することができる。それにくわえて、目だちやすいものと目だちづらいものとがある。

 わりあいにわかりやすいのは、目だちやすくて価値があるものだろう。また、目だちやすくて価値のあるものもまたわりあいにわかりやすい。

 見落とされがちなのは、目だちづらいけど価値があるものではないだろうか。この目だちづらいけど価値があるものというのは、縁の下の力持ちのようなものであって、あまり目を向けられることはないが、地味に大事なものである。

 いまの首相による政権というのは、目だちづらいけど価値があるものを壊して行っているように見うけられる。それが目だちづらいものであるだけに、気づかれづらいし、さし示されづらい。それにくわえて、目だちやすくて価値のあるものについてもまた壊してしまっているのがあるかもしれない。

 桜を見る会についてのことは、政治においてとり上げる価値があることなのかそれともそうではないことなのかというのは、さまざまな賛否の声があるものだろう。人によって価値のものさしはちがうからだ。それについては、わりあいに目だつことの価値がどうかという話だろう。

 目だつことの価値があるかないかということの裏には、それを支えているものとして、目だたないけど価値があることがある。その目だたないところに目を向けて行って、そこが壊されているのであれば、それをさし示すことがいる。

 目だつところばかりに目を向けるのではなくて、目だたないところにもまた十分に目を向けるようにして行くことがいるのではないだろうか。目だつところにばかり目を向けて、目だちづらいところに目を向けることがないのであれば、ものごとをとり落とすことになりかねない。

 目だつものではなくて、目だちづらくて、壊されやすくて、価値があるものというのがあげられる。それを壊してしまったりないがしろにしてしまったりするのであれば、肝心の目だつことの価値もまたおかしくなってしまうことにつながる。

 与党はどちらかというと目だっていて、野党はどちらかというと目だっていないというのであれば、数において多数派である与党は目だっているから価値があって、数において少数派である野党は目だっていないから価値がない。そう見なす見なし方があるかもしれない。これは多数派によった見なし方だろう。

 目だちづらいものがもつ価値というのがあるはずであって、たとえば一般的にやというのは、社会の中にそれなり以上の寛容さがないと存在することができづらい。寛容さがない社会というのは、たとえば独裁の社会や専制の社会がある。そうした独裁や専制の社会では、野党が存在することは許されないのだ。そういう社会はのぞましい社会といえるのかといえば、そうとは言えないだろう。

 価値があるのか無いのかということでは、かりに与党がやろうとしていることに価値があって、野党がやろうとしていることに価値が無いのだと見なすにしても、そのような二分法が完全になりたつとは言いきれそうにはない。価値があるとされるものは、価値が無いとされるものがあることによってはじめてなりたつ。

 価値が無いとされるものは、いっけんそう見なされているとしても、じっさいにはただ目だたないだけであって、目だたないけど価値があるということがありえる。それを切り捨ててしまうのであれば、(目だちやすくて)価値があるものもまた駄目になってしまいかねない。価値があることか無いことかを見て行くさいには、表面的な目だちやすいところにばかり目を向けるのはまちがいのもとになる危なさがある。

 参照文献 『クリティカル進化(シンカー)論』道田泰司 宮元博章 『現代思想事典』清水幾太郎