政治における二つの時間―継起する時間であるクロノスと危機の時間であるカイロス

 政治において、二つの時間がありえる。海でいうと、おだやかななぎのときと、しけで荒れた海のときである。

 おだやかなときは、時間ではクロノスに当たる。荒れているときはカイロスだ。

 クロノスというのは日常の一般の時間の流れだ。カイロスというのは危機の時間だ。カイロスでは時機(チャンス)がおきる。時機の時間性がおきることで、その前とあととが切断される。不連続になる。

 いっけんするとおだやかで安定していれば、時間でいうとそれはクロノスに当たるけど、その裏にはつねにカイロスがひそんでいる。そういうことが言えるのではないだろうか。つねに裏にはカイロスがひそんでいて、その出番をうかがっている。

 ずっとおだやかなあり方が引きつづくというのは、ずっとクロノスのままだということだが、これはカイロスの否定であって、限定されたあり方だ。カイロスを否定したとしても、それが無くなるわけではないから、限定された有用性の回路の外に出ることになることがある。その回路の外に出れば、無用性があらわになる。

 いっけんするとおだやかなあり方なのであれば、クロノスに当たるということはできるが、それで安心してしまわないようにして、つねにカイロスに備えておいたほうがよいのではないだろうか。クロノスの裏にはつねにカイロスがひかえているととらえられるからだ。秩序の裏には混沌がある。

 秩序というのにはプラスとマイナスがある。プラスだけなのではない。秩序が保たれていると、あり方が固定化されてしまう。そのマイナスを和らげるものにお祭り(カーニバル)がある。お祭りは非日常で、ケとハレでいうとハレだ。ハレがあることによって、軽く混沌がとり入れられて、新鮮さが回復する。あり方が更新される作用がはたらく。

 秩序はよいものかというと、そうであるばかりではなくて、マイナスがあることが否定できない。ずっと秩序が引きつづくだけだと、新しいあり方に更新されることがない。混沌を適度にとり入れることがないと、これまでのあり方がつづくだけになって、内部に矛盾がたまって行き、それが大きくなってしまう。政治でいうと、政権の腐敗などがそれに当てはまる。

 より根源にあるのは、秩序ではなくて混沌のほうである。混沌がまずあって、そこから秩序がおきてくる。そうしたふうに見なせるとすると、秩序を優位に置いて、混沌を劣位に置くのは、根源にあるものの忘却だ。それを想起するようにして、混沌が根源にあるということを思いおこすようにできれば、あり方が更新される作用が見こめる。

 ほんとうにおだやかなあり方なのであればクロノスに当たるが、じつは本当にそうなのではなくて、たんに疑似のクロノスだということがありえる。えせのクロノスなのであって、本当はカイロスになっているのだ。無理やりにえせのクロノスを押し通すとしても、いずれ無理が通らなくなって、カイロスがあらわになることになりかねない。

 戦前や戦時中では、日本はまちがいなく戦争に勝つとか、日本は神の国だという神話がとられていたが、この神話が通用していたときはまがりなりにもクロノスだ。戦争に負けてその神話が崩れ去ったのがカイロスだ。神話の物語の安定と崩壊という点で見ればそういうことが言えるだろう。

 いまの時代においても、神話による物語や、ものごとを自然なことだと思わせる神話作用が多かれ少なかれ働いている。そうした物語がずっと安定したままこれから先もつづいて行くにちがいないと見なすのはクロノスだが、それが通用しなくなって崩れ去るのはカイロスだ。

 物語が安定して引きつづいて行くと見なすのはクロノスだが、その一つにいまの与党やいまの政権による支配がある。いっけんするとその支配は安定しているようでいて、じっさいにはそうではないのがあるのではないだろうか。表面的には安定しているようでいて、改めて見ると色々なところに色々な穴が空いている。その穴がフタによって隠されているから、穴を見たくなければ見ないですむ。フタによって穴がふさがれているのは、疑似やえせのクロノスであって、その裏にはカイロスがある。安定した物語というのを疑ってみれば、そう見なすことができるだろう。

 参照文献 『読書のユートピア清水徹 『世界史の極意』佐藤優 『トランスモダンの作法』今村仁司他 『現代思想を読む事典』今村仁司編 『理性と権力 生産主義的理性批判の試み』今村仁司 『半日の客 一夜の友』丸谷才一 山崎正和 『知的複眼思考法 誰でも持っている創造力のスイッチ』苅谷剛彦(かりやたけひこ)