国の借金と、貨幣のはたらきと構造

 国はいくら借金をしても大丈夫だと言われる。それとはちがい、国の借金を減らさないとまずいとも言われる。

 なぜ国は借金をすることができるのか。それは、国には徴税権があるからだという。国は国民から税金(や社会保険料)をとり立てられるので、借金ができるのだ。

 国には貨幣(通貨や紙幣)を発行する権利があるので、そこから国は借金ができるのだということも言われている。ここでいう貨幣というのは、ごく当たり前に使われているものだが、改めて見るとよくわからないものだ。

 貨幣というのは堂々めぐりの道具であって、自己言及性がある。貨幣とは何かをとらえるさいに、貨幣そのものを抜きにしてはとらえづらい。貨幣は使用されることによって貨幣となるのだ。

 ふつうは貨幣と言えば経済によるお金を思い浮かべる。これは狭義によるものだ。貨幣とは経済によるお金に限られず、もっと広くとらえることがなりたつ。広義で見られるのだ。広く言うところの貨幣からすると、経済のお金の貨幣は、その部分集合となるものだ。

 経済でいうと、貨幣であるお金は等価交換だ。ほかの商品からは排除されている。貨幣はふだんはおもてに出てこず、交換の仲立ちをするのにとどまる。秩序を縁の下で支えているのだ。

 世の中が平穏なときは貨幣はおもてに出てはこないが、何かことがおきると貨幣はおもてにおどり出てくる。このさい、貨幣ということで何がさし示されているのかというと、それは経済のお金には限らず、日ごろに日の目を見ず、のけ者や日陰者とされているものをさしている。

 世の中の秩序が崩れて、ものごとの区別がはっきりとしなくなってくると、混沌がおきてくる。混沌とすることによって、たまった汚れなどの負の要素を吐き出して、新しいあり方に更新することをうながす。その役を引きうけるのが貨幣なのだ。

 秩序が崩れて、混沌がおきて、新しいあり方に更新されるというのは、文学で言われるカーニバル理論をからめて言ったものだ。カーニバル理論とは、素人の言うことだからまちがっているかもしれないが、季節のめぐりになぞらえられる。冬から春(または夏)へと移る。いやな冬の王を打ち倒して、よろこばしい春や夏を復活させる。冬の王にたいする戴冠(たいかん)と奪冠だ。殺される王(冬の王)の主題がとられる。ケ(日常)とハレ(非日常)とも言えるだろうか。

 経済において、お金を持っている量の多い少ないで言うと、お金持ちと貧乏人がいるわけだが、このちがいは平等という点からすると欺まんである。このちがいが固定化されるのではなくて、ちがいがなくなったり反転したりするさいに、(交換の仲立ちとなることなどによって)日ごろは排除されて辺境にある貨幣のはたらきが関わってくる。

 参照文献 『高校生のための経済学入門』小塩隆士(おしおたかし) 『数学的思考の技術 不確実な世界を見通すヒント』小島寛之(ひろゆき) 『貨幣とは何だろうか』今村仁司寺山修司の世界』風馬の会編 『忠臣藏とは何か』丸谷才一 『見わたせば柳さくら』丸谷才一 山崎正和