参与と離脱(定住と遊牧)

 離脱学とか、離脱法というのが、学校の道徳の教科で教えられればよいのではないか。離脱するべきときに離脱できるようにする。

 離脱するべきときにそれができないと、自分の命を損なってしまうことがある。ブラック企業に食いものにされてしまうことなどだ。学習性無気力におちいってしまう。

 そこにとどまりつづけてがんばるのが、世間においてよしとされすぎているのではないだろうか。置かれたところで咲きなさい、といったようなものだ。それにたいする反命題(アンチ・テーゼ)ということで、離脱したほうがよいことがあるのは少なくないのだと言いたい。

 帰属による同一性(アイデンティティ)がよしとされすぎていて、帰属からの離脱である個性(パーソナリティ)がとりづらい。それによって画一化することになる。平準化や同調の圧力がはたらく。空気を読まさせられたり忖度(そんたく)させられたりする。

 そこにとどまりつづけるのがよいか、それとも離脱するのがよいのかは、いちがいにこうだと言い切ることはできづらい。とどまりつづけることに難や非があるとすると、ゆでがえる現象になりかねないのがある。ゆであがってしまうとすると危ない。それを避けるために離脱することがいるというわけだ。とどまりつづけることによって参与(コミットメント)が上昇してしまうのを防ぐ。

 人間どうしの関係では、結婚は参与で、離婚は離脱だ。結婚は制度だ。結婚に参与しつづけるのだとしても、だんだんと愛はさめてきがちだ。愛がさめてもそのまま参与しつづけるのもあるけど、愛がさめたのだから離婚しようということになると離脱になる。

 政治でいうと、とどまりつづけるのは行政や公共政策や統治(ガバーメント)で、離脱は政局や闘争(ポリティクス)だ。行政の政治と闘争の政治だ。いまは、政権や省庁による統計の数値の不正や情報のごまかしなどで行政や統治がおかしくなって腐敗している。なので政局や闘争の必要性が高まっているのではないだろうか。

 政局や闘争が必要なのにもかかわらず不当に抑圧されるのは、民主主義ではなく権威主義専制主義だ。何でもかんでも政局や闘争にもちこめばよいというのではなくて、つり合いがいるのはたしかだが、いまはまっとうな政局や闘争がいちじるしく欠けてしまっているというのが個人的な見立てだ。政権に都合のよいような見せかけの表面的な政局にもちこまれてしまっている。

 時間でいうと、とどまりつづけるのは日常の時間(クロノス)で、離脱は危機の時間(カイロス)だ。クロノスは日常の継起する連続の時間だ。それが切断されるのがカイロスである。カイロスは時機(チャンス)やできごと(イベント)の到来であって、それがおきる前とおきたあとでは、よきにつけ悪しきにつけ、あり方が変わるようなものだ。

 参照文献 『組織論』桑田耕太郎 田尾雅夫 『見切る! 強いリーダーの決断力』福田秀人 『政治家を疑え』高瀬淳一 『半日の客 一夜の友』丸谷才一 山崎正和 『世界史の極意』佐藤優